2020年1月2日 木曜日 曇り
吉村昭 赤い人 講談社文庫・新装版 2012年(旧版は講談社文庫1984年、オリジナルは1977年「文学展望」の17・18号に分載された長篇)
・・さらに金子(堅太郎)は、北海道開拓に囚人を積極的に使用し、しかもその作業は北海道発展の基礎となる道路開鑿に集中すべきだと建言した。 ・・その理由として、金子は復命書に左のように記した。 ・・北海道の道路開鑿は、密林の伐木、険阻な山嶺の掘削、湿地帯の排水等をともなうきわめて困難な工事で、一般の道路工夫には不可能に近いものであり、もしそれを強行する場合には多額の賃金を支払わなければならない。それは国家財政に大きな負担になるので、一般工夫の使用は断念し、開鑿・農耕の作業に従事している集治監の徒囚たちを、道路開鑿に転用させるべきだと述べ、囚徒を使役する必要性について左のように論述した。 ・・「(囚徒)ハモトヨリ暴戻(ぼうれい)の悪徒ナレバ、ソノ苦役ニタヘズ斃死スルモ、(一般ノ)工夫ガ妻子ヲノコシテ骨ヲ山野ニウヅムルノ惨情トコトナリ、・・(・・・以下略・・・)・・ヨロシクコレラ囚徒ヲ駆ツテ(一般)工夫ノ堪ユルアタハザル困難ノ衝ニアタラシムベキモノトス」(吉村、同書、p183-185)
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明治二十年一月四日、樺戸集治監の正門にかかげられていた大きな木札(きふだ)がはずされ、新たに樺戸監獄署と墨書された板がとりつけられた。集治監を管轄する北海道庁の指令で、樺戸、空知、釧路三集治監が、それぞれ監獄署と改称されたのである。(吉村、同書、p203)
・・永山武四郎の新長官就任によって行政機構の改変がみられ、監獄署と改名されていた名称が、明治二十三年七月に再び集治監となった。(吉村、同書、p217)
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・・この開鑿工事によって、札幌から旭川、北見をへて網走までの道路が開通し、沃地の多い沿道の女満別、美幌(びほろ)などに移民の入植が期待された。 ・・囚人の犠牲は、大きかった。有馬分監長は、永山北海道庁長官に道路工事の完成を報告するとともに、起工から十一月末までの出役した囚人の状況を伝えた。それによると、病気にかかった囚人は延一千九百十六名、栄養失調症による死亡者百五十六名、・・・・・以下略・・・(吉村、同書、p236)
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