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空知集治監の幌内炭山経営:時代の明暗が渦巻く混沌の大地・北海道

2020年1月2日 木曜日 曇り

吉村昭 赤い人 講談社文庫・新装版 2012年(旧版は講談社文庫1984年、オリジナルは1977年「文学展望」の17・18号に分載された長篇)

空知集治監の幌内炭山経営権問題:

永山は、同じ薩摩藩出身の堀基に三十五万円という破格の安い価格で、幌内炭山と幌内鉄道を払い下げた。・・空知集治監は、囚人を労役に差し出すだけになった。つまり、囚人の昼夜二交代という強制労働と安価な囚人の工賃の上に、堀は、炭山を経営するようになったのである。この払いさげ問題は、明治二十四年末の第二回帝国議会で早くも採り上げられた。質問者は栃木県選出代議士田中正造で、安価な払いさげ額を官と財閥のむすびつきによるものでhないか、と質問したが、議会の解散によって政府答弁は得られなかった。(吉村、同書、p227)

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幌内炭山では、落盤、爆発事故が絶えず、明治二十四年九月と翌年三月にガス爆発があって、それぞれ多くの死傷者を出していた。が、炭山会社はそのような人的損害を無視し、政府に対して出役する囚人の数を増加させて欲しいという要請を繰り返していた。(吉村、同書、p240) ・・空知分監の囚人が働いている幌内炭山では、落盤、爆発事故が相いつぎ、おびただしい数の囚人が死亡し、負傷している。病者も多く、明治二十二年を例にとると、在監者一千九百六十六名中発病者は延九千三百六十九名にも達し、二百六十五名が死亡している。(吉村、同書、p241-242)・・岡田(朝太郎博士)は、炭山労役が囚人の懲戒の限界をはるかに越えた「死業」であり、労働条件の改善を強く訴えていた。(吉村、同書、p242)・・大井上は、政府に対して炭山への出役による囚人の死者、発病者、負傷者数を列記して、強く出役の廃止を訴えた。・・政府は、そうした声を無視することができなくなり、・・北海道庁に対しその年の十二月二十日、空知分監の囚人による採炭の廃止を指令させた。(吉村、同書、p243)

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監獄則の改正によって、空知、釧路両分監は廃止され、・・・・・以下略・・・(同書、p256)(〜明治三十三年)

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・・北海道のその地に集治監が創設されて三十六年が経過していたが、集治監を設置した意義は時代の流れとともに失われていた。・・それに、全国各地で監獄が新設され、しかもしれらは西欧先進国の建築方式を採用したもので、囚人を収容する余地も十分にあった。すでに、囚人を大量に北海道に送りこむ理由はなく、旧式監獄である樺戸監獄の必要性は急速に失われていたのである。(吉村、同書、p304)

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・・しかし、月形村では廃監をねがう意見が支配的で、・・大正八年一月二十日、・・樺戸監獄廃監を公布した。(同書、p305)

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