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写楽は北斎であるか?

2023年1月19日 木曜日 曇り

田中英道 実証 写楽は北斎である 西洋美術史の手法が解き明かした真実 祥伝社 平成12年

 ・・たしかに春朗と写楽の役者絵では違いがあるように見える。しかし役者絵には「中見」(なかみ)と「見立」(みたて)があることを見過ごしてはならない。前者は絵師が実際の歌舞伎を見て、写生をもとにして描くことで、後者はまだ歌舞伎公演の幕があく前に、これまでの絵組などを参考にして制作するものであった。  春朗の方はまだ類型的に描く「見立」によって描き、写楽は「中見」の方法をとったことで、顔の表情やその特徴描写に若干の差が出たと推測することが可能である。(田中、同書、p149)

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補註: 当ページの浮世絵の画像はウィキメディアコモンズのサイトから引用しました。

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Tōshūsai Sharaku (1794) Sawamura Sōjūrō III as Nagoya Sanza.jpg

Tōshūsai Sharaku (1794) Ichikawa Komazō III as Kameya Chūbei and Nakayama Tomisaburō as Umegawa (cropped).jpg

なぜ北斎は、役者絵を忌避したのか

  北斎は写楽であると悟られるのを避けていた。それは刑罰を恐れていたこともあるし、その内容を批判されたこともあるからだ。また豊国らの役者絵の隆盛により写楽画が隠れていくのを見て、自分でも写楽の芸術性をさほどに評価していなかった可能性もある。人気度と作品の質を混同したこともあろう。

 いずれにせよ私は写楽ではない、と言い続ける気持ちがあったに違いない。写楽に近づいてしまった作品は、『狂歌三十六歌仙』や『水滸伝絵本』などのように無款で発表している経緯でも推測される。それも特殊な役者絵のそれであり、北斎がその後まったくこのジャンルを手掛けなかった不思議は、まさにこの春朗ー写楽時代にそれをやり尽くしてしまった感覚があったからであろう。

 だが写楽として武者絵を二点描いてしまったために、写楽と北斎の連続性が明らかになってしまった。(田中、同書、p382-383)

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 ・・北斎の名はこれまで風景画や風俗画だけで、世界に知れわたってきたが、今後は春朗ー写楽の時期の役者絵を加えることによって、その人物画も傑出したものであったことがこれで理解できるようになる。

 これに対する反論は、北斎と写楽があまり似た作品が多くないのではないか、ということに集約されるだろうが、それなら、なぜ北斎が春朗時代の役者絵を決して繰り返さなかったか、という再反論が、一つの回答である、と述べておこう。彼はそこで役者絵を卒業したのだ。

 しかし後に北斎が風景画を手がけることにより、あの『神奈川沖浪裏』の襲いかかるような波の姿に、『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』の突き出した顔と開いた手の動きを、同じ作者の二つの共通な表現として示さざるをえなかった、と考えることができる。歌麿の美人画のような洗練された形姿や、広重の風景画のおだやかな形態と違って、極端なほどに表現形態をつきつめることによって、世界でも類をみない偉大な画家となったのである。(田中、同書、p386)

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三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』

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