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満開の桜や野ウサギのジャンプや夕陽に染まる雲が見せる複雑な色のグラデーション。なんでもいい。そういうものに、人間は神を感じてきた。

2022年9月26日 月曜日 晴れ バッカスの収穫、昨日に続いて2日目。晩腐病多く、厳しい。

たくきよしみつ 人類を養殖している生物がいる 2019年11月4日 オンデマンドver.1.0(オリジナルは2010年)

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・・わかりきったことや現実を無視して、人類みな平和に暮らせますようにとか、争いをやめましょうとか言っているほうが、よほど傲慢だ。自分がいる場所が、今日明日命を脅かされるような危険がないというだけで、現実を見ていない。それこそが傲慢な生き方だろう? (鐸木、同所、p188)

・・しかし、自分たちが生きているこの時代に、数千万単位の人間が虐殺され、飢え死にしている事実を知らないまま大人になっている。自分たちの持っている常識や世界観がいかにいい加減であやふやなものか、もっと謙虚に考えてもよさそうなものだろう。(鐸木、同所、p189)

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・・「そこまでしてきみがのめり込めるアートの世界には、タイプAだのBだのというのとは全然違う、別の神がいるとは思わないか?

アートだけじゃない。満開の桜や野ウサギのジャンプや夕陽に染まる雲が見せる複雑な色のグラデーション。なんでもいい。そういうものに、人間は神を感じてきた。人間の力が遠く及ばない力や、想像を超えたなんらかの意志を感じて、それを『神』と呼んできた。そうした神に比べて、きみが知っている神は人間そのものじゃないか。ぼくに言わせれば、それは神じゃない」

「そうだな」ステファンは素直にそう言った。 「俺が神と言ったのは、聖書に出てくる『神と呼ばれている生物』のことだ。おまえが言う神とは違うものだ。おまえが言う神は、強いていえば東洋的な神かな」(鐸木、同所、p209)

補註: 「銀河鉄道の夜」でジョバンニが女の子とその家庭教師にいう「そんなんじゃなくて(=キリスト教やユダヤ教・イスラム教の神=ヤーヴェではなくて)、本当の本当の神さまのこと」・・という言葉を思い出す。

補註追記220930HH 手入れはほとんどできないながらも、畑の東隅に日本菊の小さな畝をつくっています。この秋も綺麗に咲いてくれた小さな花・・夕暮れの仕舞い時には挨拶しながら、「山気日夕によく・・飛鳥相共に帰る・・このうちに真意あり・・弁ぜんと欲して」・・という詩句を心で繰り返しながら、言葉で描かれたのではない、(言葉を習っている幼い心の自分から既に私が)心で感じている神を(言葉を遣うことなく)念うのです。

補註: 私たち日本人が神と感じているものは、・・*私たちを育み育ててくれた、私たちを包む自然(〜おひさま) 、そして、*私たちに生を伝えてくれた(脈々と遡ることのできる)ご先祖たち。端的には、おひさま。アマテラス大御神(お天道様)とも、大日如来(本地垂迹)とも。

補註: キリスト教やユダヤ教・イスラム教の神=ヤーヴェのことを「神(かみ)」と日本語訳したのは、あとあと誤解や混乱を招く「誤訳」であった。異質のものを同じ言葉で表現してはいけなかったのだ。デウスとかゴッドとか、JHVエホバとかヤーヴェとか、日本語には便利なカタカナ表記があるのだから、「神(かみ)」と訳さず、そのままデウスとかジュピターとかJHVとか表現するとよかったのだろう。私たち日本人は日本の神さま(本当の本当の神さま)のことだけを「神」と呼ぶべきだった。

それはともかく、ニーチェもウィトゲンシュタインも悩み抜き、道に迷った。ニーチェもウィトゲンシュタインも、深く迷う前に、もしも日本に来て、日本語を学んで、さらに日本語でも哲学することができていたら、道は明確に開けていたことであろうに。(私としては、デカルトにもカントにも、日本に来て日本語を学んで欲しいという思いはあるのだが、デカルトもカントも日本には来たがらないと思う。一方で、ニーチェやウィトゲンシュタインは、きっと日本に来ていたらとても悦び、飛躍を遂げて・・結果、それほど苦しまず・・結果、普通の人として幸せな一生を終えたのではないかと思うのである。) ⦅補註の補註:私の念頭にあるのは小浜さんの「日本語は哲学する言語である」の論調である。⦆ 補註:https://quercus-mikasa.com/archives/12392「自己」なるものも「他者を介して」こそはじめて存在しうるのであり、はじめから関係存在・共同体存在として人間を把握することが人間考察の基本なのだ。(小浜逸郎 人はひとりで生きていけるか PHP研究所 2010年10月29日発行より)

・・「個人化」の傾向は、・・どうしても、人間についての根底的な理解、すなわち共感存在としての人間本質と抵触する部分を含んでくることになります。それが、「自己」と「他者」とを、ただ身体によって分断され互いに孤立した個人として捉える誤った人間理解です。ここからは、倫理性の原理がでてきません。(小浜、同書、p171)

「大衆個人主義」 ・・私がこの言葉をあえてキーワードに選んでいる主旨は、・・現代のような社会で「個人主義」的な日常行動を近しい者たちとの間で貫こうとすると、私たちだれもが自分以外には視野が広がらず、共感を喪失した脱倫理状態に陥りやすいということを表現したかったのです。けだし、近しい者同士の共感こそが、倫理の基礎をなすものだからです。(小浜、同書、p172) https://quercus-mikasa.com/archives/12392 もご参照下さい。

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・・航空機が突っ込んで外壁に穴が空いたところで、高層ビルがきれいに崩れ堕ちるなんとことはありえない。・・第7ビルが一瞬で崩れ落ちた件に至っては、冗談にもならないだろう? ペンタゴンに突っ込んだのは旅客機ではなく、米軍のミサイルだということも、まともな人間ならみんな知っている。(鐸木、同所、p42)

補註: 私自身について言えば、2001年9月からほど遠からぬ時点で、第7ビル倒壊やペンタゴンミサイルの事実を伝え聞いて(あるいは読んで)知り、驚きました。そして、考えました。その後の米軍のアフガニスタン侵攻、大量破壊兵器濡れ衣からイラク戦争とフセイン大統領処刑などの現代進行形の歴史を通して、20世紀の歴史、特に日本の現代史の教科書的理解が私のなかで「修正」されていった経緯があります。温暖化騒ぎ・経済危機・新型ウイルス新型ワクチン・ポリコレ・・これらも爆弾を使わないけれど戦争の一種なのかもしれません。

補註続き: ところが、WTC1&2のみでなく第7ビルが爆薬で倒壊したことやペンタゴンが(航空機ではなく)ミサイル命中によって破壊されたことを、私はさまざまな人(日本の人)に話しましたが、ほとんど全ての人が、なるほどそうでしたか・・で聞き流してしまわれて、それでおしまい。なかなか本題に深く入り込むことができなかったのでした。大概、すぐに話題が転換されてしまうのでした。多くの人には興味のない、どちらでもOKの歴史の一コマかもしれません。けれど、私にとっては、アラモ砦も、ルシタニア号も、真珠湾も、トンキン湾も、911、大量破壊兵器疑惑も、リンカーン暗殺やケネディ暗殺と並んで、世の歴史そして私たちが生きる今の現実を何とか深く理解したいという望みに答えてくれるひとつの縁(よすが)になると思っております。

鐸木さんは、第7ビル倒壊やペンタゴンミサイルの事実は、どう受け止められたのでしょうか? こうして鐸木さんの小説の中で、上手に取り扱われているのを(すでに出版から12年後になって、私は今頃読んでいるわけですが)発見して、私はなぜか嬉しくなってしまいました。恐らく、考えていることを話し合える相手を見つけたような嬉しさなのでしょう。

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