2016年3月12日 土曜日 曇り
小林惠子 海を渡る国際人 桓武天皇の謎 なぜ「京都」を都に定めたのか 祥伝社 平成二一年(2009年)
中国で反乱が起きると、日本の東北地方の蝦夷や狄が争乱を起こす
中国で反乱が起きると、この時代は必ず日本の東北地方の蝦夷や狄が争乱を起こす。今まで中国の反乱と東北地方の反乱との関連を想定するものは誰もいなかった。なぜ考えられないのか。古代では海は道路である。・・当時、すでに世界は帆船の時代に入っていたから、沿海州の民族と往来できないわけはない。 初めはただの移民でも、国が形成されると政治的問題や戦争が始まるのは必然というものである。七・八世紀にも異民族が陸続と日本列島に入り込んでいた。本国の争乱を避けてくるもの、あるいは逆に新天地を求めて日本海を渡ってくるもの、つまり侵略してくるものがいるのは当然である。 彼らは当時に置いては靺鞨や契丹などの東夷といわれる民族や、吐蕃だったり回鶻だったり、あるいは少数のソグド人だったりしたのである。彼らを日本では総括して一般に狄というが、一応日本国の支配に組み込まれたものを俘囚(ふしゅう)と称した。そして部族長には外位を授けたりして日本の兵力にしていたのである。(小林、同書、p100)
この(七七九年・宝亀一〇)東夷の反乱とは、中国を荒らしまわっていた吐蕃勢力の余波が東北に上陸したのを指すと考えられる。・・同年九月に渤海、および鉄利(てつり、鉄勒てつろくの別称。突厥の一部族)三五九人が出羽国に来たが朝廷は帰国の船などを手配して帰国させようとしている。一二月に彼らは船九艘でようやく帰国した。(小林、同書、p118-119)
「羅記」には、宣徳王は金氏で奈忽王一〇世の孫とある。(小林、同書、p121)
東北の狄俘の日本国に対する反乱の場合、まず所属する中国東北部の民族か、唐国の指示を考えなければならない。(同書、p124)
日本王として徳宗の承認を得られない山部王は朱泚(しゅせい)の反乱に加担し、密書をもらった一人かもしれない。 しかし朱泚が滅びると、吐蕃などがもろに平壌に南下するから、新羅王でいるわけにはいかない。翌七八四(延暦三)年四月、宣徳王は王座を下りようとしたが、群臣が引きとめたので一時、とりやめたという。しかし、翌七八五(延暦四)年一月、死後、東海に散骨するよう命じて没したという(「羅記」) 東海に散骨した新羅王は宣徳王を含めて三人いる。・・文武王・・孝成王・・そして宣徳王・・といずれも新羅王であり、・・「羅記」は「東海に散骨する」という記述で、新羅王から日本の天皇になった人物を暗示しているのである。(小林、同書、p134)
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補注 宣徳王 ウィキペディアによると・・・
宣徳王(せんとくおう、生年不詳 – 785年)は新羅の第37代の王(在位 : 780年 – 785年)であり、姓は金、諱は良相。第17代奈勿尼師今の十世孫であり、『三国史記』新羅本紀・宣徳王紀に拠れば、父は海飡(4等官の波珍飡、別名海干の混同か)の金孝芳、母は第34代聖徳王の娘の四炤夫人。それぞれ即位後に追封して開聖大王、貞懿太后とした。王妃は角干(1等官)の良品の娘の具足夫人。『三国遺事』王暦においては、祖父を元訓角干、父を孝方海干(4等官)、母を四召夫人、王妃を狼品角干の娘の具足王后とする。
780年4月に先代の恵恭王を殺して王位に就いた。宣徳王以降を新羅の下代といい、王都での反乱が続き、王位簒奪が繰り返されることとなった。
恵恭王の10年(774年)9月に伊飡(2等官)の位で上大等に任命された。当時の新羅の貴族の間では、王の下で律令訂正を推進しようとする党派と、王権を抑えて中央貴族連合体制に復帰しようとする党派とで争いを繰り返しており、769年の貴族連合派の反乱、770年の律令派の反乱が平定されたところであった。良相が上大等に着任した後にも775年6月・8月に貴族連合派の反乱が起こっており、鎮圧されてもいる。王権が伸張したために抑えられがちにあったとはいえ、上大等の立場は貴族連合を代表するものであり、良相はこうした立場から777年4月には王に政治批判の上書を行なった。恵恭王は貴族連合派に配慮する形で、王族から金周元を侍中に任命して律令派と貴族派との提携を図ったが、780年2月に再び貴族の反乱が起こって王宮を包囲することになった。この反乱に対して良相は伊飡の金敬信(後の元聖王)とともに挙兵し、反乱を平定するとともに恵恭王までも殺害し、自ら王位に立つこととなった。
即位して直ちに宣徳王は金敬信を上大等に任命し、782年閏正月には唐に対して朝貢を行なった。勢力を強めている渤海に備え、北方面の守備に努め、781年7月には浿江(大同江)以南の地に使者を送って安撫し、また782年2月には漢山州(京畿道広州市)の住民を浿江鎮(黄海北道平山郡または金川郡)へ移住させている。
祭祀においては、王系の変革となったために自らの父を開聖大王として追封して五廟を保ち、また社稷の壇を築いたことが伝えられている。
在位6年目の785年正月になってようやく唐の徳宗から<検校大尉・雞林州刺史・寧海軍使・新羅王>に冊封されたが、病に倒れてそのまま正月13日に死去し、宣徳王と諡された。遺詔によって火葬され、日本海に散骨された。王陵は未詳。
<以上、引用終わり>
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