2016年2月15日 月曜日
中村修也 白村江の真実 新羅王・金春秋の策略 吉川弘文館 2010年
(金春秋が)日本へやってきた理由は明確ではない。この春秋の日本来訪と日本の白村江の戦いへの道程は、何か関連性があるのではないか。(中村、同書、p36)
秘密の計画は、知っている者を限定しなければなりませんが、かといって後継者がいなければ、遠大な計画はたてられません。(中村、同書、p101)
春秋は新羅の服制を唐の制度に変えた
平和時の論理では、いろいろと批判すべき点もあろう。しかし、明治維新もこの時の新羅も、外圧からいかに脱出するかという瀬戸際であった。戦時の論理ということができよう。(中村、同書、p112)
朝鮮三国の在日使節たちは、それぞれの思惑は異なるものの、結果的には、日本の参戦を促す情報を中大兄たちに提供していたことになる。(中村、同書、p169)
百済滅亡
・・・斉明朝は、いよいよ唐の今後の動向に必死で予測を加えたであろう。 それは、ただ一点に集中した予測である。 唐が日本にまで触手を伸ばしてくるかどうかという点である。(中村、同書、p171)
滅亡してしまった今となっては、それを復興する助けまで出さなければならない義理はない。復興となると、いつまで百済を救援し続ければよいか、その期間すらわからない。果てしない持久戦になる可能性もある。また、いったんは百済王室を復興できても、それで唐・新羅軍がひきさがるとも思えない。再び百済攻撃にやってきたならば、またも日本は救援軍を派遣せねばならなくなる。百害あって一利なしである。(中村、同書、p176)
はたして、この百済復興救援軍の派兵は、日本の変革にとって必要なことだったのであろうか。不可避の出来事だったのであろうか。(中村、同書、p184)
事実、新羅こそが、もっとも苦しい状況から、唐の軍事力を利用して百済を滅亡させ、その後は、唐の支配を排除して統一新羅を誕生させるという、一番の勝利者なのである。(中村、p190)
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