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阿弖利爲を殺したことで、天皇家は軍事力と金を失った

2016年3月12日 土曜日 曇り

小林惠子 空海と唐と三人の天皇 祥伝社 平成二三年(2011年)

大原三千院は誰のためのものか
(八〇二年・延暦二一年一〇月)二十六日に「幸大原野」(大原野に行かれた)とある。・・私の頭にはすぐ大原三千院が浮かんだ。はたしてあの寺院は誰のために建立されたのか。 ・・・平安末期から中世にかけて、天皇の権威が地に堕ち戦乱の時代になると、「記紀」の記述や天皇に対する異論が世間に流布するようになった。私はこのような中世の書から古代を類推することが多い。なぜなら、この時期の古代史書には時の権力者におもねる必要がなく、真実を語っている場合が多いからである。たとえ三千院が移転を繰り返し、大原にあったのが中世以降の一時期だとしても、何らかの伝承が残されたがゆえに大原に移築されたと考える。(小林、同書、p72-74)

安殿(あて)と妻、徳宗・順宗を訪問
八〇五(貞元二一・延暦二四)年一月二十三日(あるいは二十二日)に徳宗が没し、わずか数か月の間だが、長子の順宗が即位した。その二月一二日条に「日本国王ならびに妻、蕃に還る。贈り物を遣わした」(「旧唐書」本紀)とある。順宗は父徳宗の意を汲んで、安殿(あて)を日本国王に任命していたのである。(小林、同書、p78)

安殿(あて・平城天皇)、兵力と金を失い、統治不能に
阿弖利爲(あてるい)亡き後、安殿(あて)は頼るべき軍事力を持たなくなっていた。伊予親王によって仕組まれた唐使の上京拒否は平城に対する憲宗の誤解を招いた。そのことと阿弖利爲という軍事的バックが失われたことが平城譲位の決定的理由だったと思う。(小林、同書、p99) 朝廷が阿弖利爲を殺すと奥州は混乱し、兵力だけではなく、天皇家への金の流入も止まった。 阿弖利爲の殺害は藤原氏に有利に働いた。阿弖利爲がいなくなると、藤原一族が土着の蝦夷などを通じて、密かに別ルートで金を手に入れるようになったようだ。・・したがって二度と金は天皇家には戻らなかった。 軍事の扱いには不得手な藤原氏だが、金を手中にすると、唐が没落し日本への政治介入ができなくなったのと相まって、平安中期以後の専横時代に移行するのである。(小林、同書、p102)

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補注 アテルイ ウィキペディアによると・・・

アテルイ(? – 延暦21年8月13日(802年9月17日))は、平安時代初期の蝦夷の軍事指導者。789年(延暦8年)に胆沢(現在の岩手県奥州市)に侵攻した朝廷軍を撃退したが、坂上田村麻呂に敗れて処刑された。
史料には「阿弖流爲」「阿弖利爲」とあり、それぞれ「あてるい」「あてりい」と読まれる。いずれが正しいか不明だが、現代では「アテルイ」と呼ばれる。坂上田村麻呂伝説に現れる悪路王をアテルイだとする説もある。本名は大墓公阿弖利爲(たものきみあてりい)
本項ではアテルイと共に処刑された母礼(モレ)についても記載する。

アテルイは、史料で2回現れる。一つは、巣伏の戦いについての紀古佐美の詳細な報告で『続日本紀』にある。もう1つはアテルイの降伏に関する記述で、『日本紀略』にある。
史書は蝦夷の動向をごく簡略にしか記さないので、アテルイがいかなる人物か詳らかではない。802年(延暦21年)の降伏時の記事で、『日本紀略』はアテルイを「大墓公」と呼ぶ。「大墓」は地名である可能性が高いが、場所がどこなのかは不明で、読みも定まらない。「公」は尊称であり、朝廷が過去にアテルイに与えた地位だと解する人もいるが、推測の域を出ない。確かなのは、彼が蝦夷の軍事指導者であったという事だけである。
征東大使の藤原小黒麻呂は、781年(天応元年)5月24日の奏状で、一をもって千にあたる賊中の首として「伊佐西古」「諸絞」「八十島」「乙代」を挙げている。しかしここにアテルイの名はない。

巣伏の戦い
この頃、朝廷軍は幾度も蝦夷と交戦し、侵攻を試みては撃退されていた。アテルイについては、789年(延暦8年)、征東将軍紀古佐美遠征の際に初めて言及される。この時、胆沢に進軍した朝廷軍が通過した地が「賊帥夷、阿弖流爲居」であった。紀古佐美はこの進軍まで、胆沢の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させて日を重ねていたが、5月末に桓武天皇の叱責を受けて行動を起こした。北上川の西に3箇所に分かれて駐屯していた朝廷軍のうち、中軍と後軍の4000が川を渡って東岸を進んだ。この主力軍は、アテルイの居のあたりで前方に蝦夷軍約300を見て交戦した。初めは朝廷軍が優勢で、蝦夷軍を追って巣伏村(現在の奥州市水沢区)に至った。そこで前軍と合流しようと考えたが、前軍は蝦夷軍に阻まれて渡河できなかった。その時、蝦夷側に約800が加わって反撃に転じ、更に東山から蝦夷軍約400が現れて後方を塞いだ。朝廷軍は壊走し、別将の丈部善理ら戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人の損害を出した。この敗戦で、紀古佐美の遠征は失敗に終わった。

朝廷軍の侵攻とアテルイの降伏
その後に編成された大伴弟麻呂と坂上田村麻呂の遠征軍との交戦については詳細が伝わらないが、結果として蝦夷勢力は敗れ、胆沢と志波(後の胆沢郡、紫波郡の周辺)の地から一掃されたとされる。田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。
『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。2人は田村麻呂に従い7月10日に平安京に入った。田村麻呂は2人の命を救うよう提言したものの、平安京の貴族たちは「野性獣心、反復して定まりなし」と反対したため、8月13日に河内国にてアテルイとモレは処刑された。処刑された地は、この記述のある日本紀略の写本によって「植山」「椙山」「杜山」の3通りの記述があるが、どの地名も旧河内国内には存在しない。「植山」について、枚方市宇山が江戸時代初期に「上山」から改称したため、比定地とみなす説があったが、発掘調査の結果、宇山の丘は古墳だったことが判明し、枚方市宇山を植山とする説は消えた。

<以上、引用終わり>

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補注 平城天皇 ウィキペディアによると・・・
平城天皇(へいぜいてんのう、宝亀5年8月15日(774年9月25日) – 弘仁15年7月7日(824年8月5日))は第51代天皇(在位:延暦25年3月17日(806年4月9日) – 大同4年4月1日(809年5月18日))。小殿(おて)親王、後に安殿親王(あてのみこ)。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。

補注 藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)ウィキペディアによると・・・
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ、天平宝字4年(760年) – 延暦9年閏3月10日(790年4月28日))は、奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇の皇后、第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった.
親族
父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵(就任時期不明)・阿倍古美奈。山部親王の許に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王(後に改名して安殿)を産んだ。
生涯
天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年)2月5日には無位から正三位に叙される。2月7日には夫人(ぶにん)となり、4月には皇后に立てられる。同4年(785年)には安殿親王(後の平城天皇)が立太子される。
延暦5年(786年)には神野親王(後の嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳で崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された。『続日本紀』によると、「后姓柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と記されており、「乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた」という意味である。
^ a b 『一代要記』に薨年三十九とあり、これに拠るなら天平勝宝4年(752年)生まれということになる。高島正人は、父藤原良継や桓武の年齢、平城の出生年(続日本紀の記述どおりだとすれば満13あるいは14歳で出産したことになる)からすれば、こちらのほうが合理的だとしている。高島「奈良時代における藤原氏一門の女性」『奈良時代諸氏族の研究』p.397。

補注 一代要記(いちだいようき) ウィキペディアによると・・・
一代要記(いちだいようき)は、年代記の一つ。著者不詳。後宇多天皇の時に成立し、鎌倉時代末から南北朝時代初期まで書き継がれた。水戸徳川家による『大日本史』の史料探索中、延宝年間に金沢文庫本を発見し、10冊に書写して世間に流布した。

補注 桓武天皇の后妃・皇子女 ウィキペディアによると・・・
皇后:藤原乙牟漏(760-790) – 藤原良継女
  安殿親王(平城天皇)(774-824)
  神野親王(嵯峨天皇)(786-842)
  高志内親王(789-809) – 大伴親王妃(淳和天皇贈皇后)
夫人(贈皇太后):藤原旅子(759-788)- 藤原百川女
  大伴親王(淳和天皇)(786-840)
妃:酒人内親王(754-829)- 光仁天皇皇女
  朝原内親王(779-817)- 伊勢斎宮、平城天皇妃
夫人:藤原吉子(?-807)- 藤原是公女
  伊予親王(783-807)・・・以下、略・・・

嵯峨天皇 ウィキペディアによると・・・
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) – 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月18日) – 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 諱は神野(賀美能・かみの)。
桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。

<以上、引用終わり>

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