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大伴安麻呂の屈折した心情

2016年3月13日 日曜日 曇り

小林惠子 西域から来た皇女 本当は怖ろしい万葉集2 祥伝社 2005年

大津を裏切った男に終生ついてまわった自責の念
大伴安麻呂は結果として大津皇子を裏切り、持統朝成立を助けたが、持統朝には全く顔を見せず、持統朝以後、安麻呂と確認される歌はない。・・安麻呂は七一四(和銅七)年五月に没するが、年齢に関する記録はない。・・安麻呂は佐保川のほとりに住んでいたので「万葉集」では佐保大納言卿と呼ばれていた。・・「公卿補任」によると、安麻呂はその死に際して「葬礼を受けず」と葬儀を辞退したとある。今でこそ葬儀を望まない人は増えているが、当時としては罪人以外に考えられないことである。自ら望むというのは例外中の例外である。 このように安麻呂は晩年、屈折した心情を持っていたようだ。理由の一つは大津朝成立に生涯を賭けながら、結果としては大津皇子を裏切ったことへの自責が終生ついてまわったのかもしれない。(小林惠子、同書、p193-196)

同じ大伴でも旅人ではなく安麻呂の歌である理由
帥(そち)大伴卿 巻三 三三一から三三五
大宰帥大伴卿 巻三 三三八から三五〇
・・これらの歌はすべて大宰帥とあるところから、大宰帥だった大伴旅人の歌と考えられてきた。しかし安麻呂も大宰帥だっとことがあるので、かならずしも大宰帥とあれば大伴旅人とは限らないのである。 その他、年代が旅人と同じ山上憶良の歌の後にあることなどからも旅人の歌とされているようだが、「万葉集」では年代が順不同な歌は数多くあるから決定的な根拠にはならない。安麻呂の歌を息子の旅人が管理していたのが、後に旅人の歌と混同された場合も大いにあり得ることである。 さらに私がこれらの歌の多くを、旅人の歌ではなく、安麻呂の歌とする理由は、大宰帥・大伴旅人と確認される歌に限って年月が明らかなことである。・・旅人が大宰帥だった時は、作歌の時期を明らかにしているのが特徴である。 今回、私が安麻呂作とするのは作年代が不明な歌である。 そして私が安麻呂の歌とする最大の理由は、安麻呂と旅人との生き様の違いである。旅人は終生、元正天皇の忠臣だった。その意味で恥じることも後悔することもない人生だった。むしろ単純な武人としての生涯といえるかもしれない。安麻呂は治世に参加した政治家としての面を持つが、旅人の時代には藤原一門や長屋王の勢力が強く、旅人は武人としてのみの活動に限られたことにもよろう。・・安麻呂の生涯は裏切りと挫折の生涯だった。私が安麻呂の歌と推定するすべての歌に流れているのは厭世的なペシミズムである。安麻呂は持統朝、文武朝を通じて閑居しながら鬱々と日を送っていた様子がこれらの歌から察せられる。(小林惠子、同書、P196-197)

三三一 わが盛り またをちめやも ほとほとに ならのみやこを 見ずかなりなむ
「奈良の都をみることはないだろう」
私が強調したいのは、この歌では安麻呂は奈良京を見たことがないということが分かることである。・・では安麻呂は生前、大和に帰れないと覚悟して作歌したが、結局、帰ることができたのか。「葬礼をうけず」とある記録とともに安麻呂の死の前後には疑義が残る。(小林惠子、同書、P199-200)

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