読書ノート

きっとトルコと戦争になりますな。セルビアとロシアがこの戦争じゃオーストリーを助けに来ますよ。それはひどい殺し合いになりますね。

2022年4月2日 土曜日 晴れ

ハシェク作・栗栖継訳 兵士シュヴェイクの冒険(一)岩波文庫 1972年(原作は1921年)

・・シュヴェイクはここでグイとビールを飲みほして、言いつづけた。「皇帝陛下がこのまま黙って見ている、とお思いですかね。そうだとすりゃ、認識不足ですな。トルコとの戦争は必至ですよ。わたしの叔父さんを殺した報いがこれだ、ってガーンと一つゲンコツをくらわすのです。きっと戦争になりますな。セルビアとロシアがこの戦争じゃわれわれを助けに来ますよ。それはひどい殺し合いになりますね」 こういう予言をおこなった瞬間、シュヴェイクはりっぱに見えた。満月のようにほほえみを浮かべた彼の素朴な顔は、熱情に輝いた。彼にはすべてのことが、このように明かだったのである。

「ひょっとするとね」と、シュヴェイクはオーストリーの未来の描写をつづけて言った。「トルコとの戦争が起こった場合、ドイツがわれわれのところへ攻めてくるかもしれませんよ。ドイツとトルコとはなかよくやっていますのでね。ドイツ人というのはしょうのない畜生で、あんなのは広い世界にもちょっと見当たりませんな。でもわれわれはフランスと同盟すればいいです。フランスは1871年以来、ドイツには恨みを抱いていますからね。これでお膳立ては揃いました。戦争になりますよ。これ以上は言わぬが花でしょう」(ハシェク、同書、p29-30)

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Banner of the Holy Roman Emperor (after 1400).

補註: ご存じのように、オスマン帝国は戦争に巻きこまれたくなかった。詳しくは、神野正史さんの「世界史劇場・侵蝕されるイスラーム世界」などをご参照ください。

補註: 皇帝陛下・・皇帝フランツ・ヨーゼフ一世。サラエヴォで暗殺されたのはシュヴェイクによると「叔父さん」とあるが、正しくは「甥」のフェルディナント大公、つまり、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナント大公夫妻。なんで叔父さんの皇帝フランツ・ヨーゼフ一世から「皇位継承者」という不思議な意地悪な名称で呼ばれていたかなど、神野さんの「世界史劇場・第一次世界大戦」に訳の分かる詳しい解説がされていますのでご参照ください。

補註: オーストリア皇帝・・神聖ローマ皇帝ではなく、オーストリア帝国の皇帝(ハプスブルク家)。ナポレオンの所為でこうなりました。その事情は、たとえばウィキペディアによると・・<以下引用> フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵略に対して、フランツ2世は神聖ローマ帝国の将来に危惧を抱き、帝国の崩壊の事態に対して、ハプスブルク=ロートリンゲン王朝が皇帝の称号を維持することを望んだ(このときフランツ2世は神聖ローマ皇帝を意識したフランス皇帝の称号を承認している)。フランツの危惧した通り、オーストリア軍は1805年のアウステルリッツの戦いで軍事的敗北を喫し、勝利者のナポレオンは帝国諸邦の一部からライン同盟を再編して、古いライヒ(帝国)を破壊し、フランス帝国という神聖ローマ帝国に代わる西ローマ帝国の継承国家を作ろうとした。ナポレオンに神聖ローマ皇帝を簒奪される前にフランツ2世は神聖ローマ皇帝から退位し、帝国を解散した。このときに形骸化した神聖ローマ皇帝に代わる称号が「オーストリア皇帝」であった。結果フランツ2世の君主権が及ぶ領域はドイツからドイツの外にある領域も含むハプスブルク家領に移り、「神聖ローマ皇帝」フランツ2世は「オーストリア皇帝」フランツ1世となった。新しい皇帝の称号は、フランス皇帝ナポレオンによって承認された。以前のものよりも権威が減じたように響くが、フランツ1世の王朝はオーストリアを支配し続け、ハプスブルク=ロートリンゲン家の君主の称号はなおも皇帝(Kaiser)であり、単なる国王(König)ではなかった。<以上、引用終わり>

カレル橋

補註: 大公・・ハプスブルク家・ルドルフ四世が「大公」というものを新たに捏造。カエサル(ジュリアス・シーザー)やネロのお墨付きの手紙が動かぬ証拠!! もちろんこれも(ペトラルカもびっくりの)捏造。しかし、岳父の神聖ローマ皇帝カール4世がこれを黙殺、結果、黙認したこととされ、数百年後には「大公」は公認の称号となった。このあたりの事情は本ウェブでも紹介した。「うやむやのまま偽書が真書に: 建設公ルドルフ(ハプスブルク家)vs 神聖ローマ帝国皇帝カール4世(ルクセンブルク家)」 <以下引用> カール4世がこれに対して証拠を提出するように言い渡すと、ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、全て偽造だった。しかも、特許状はよくできた偽書だったが、手紙の差出人はそれぞれ古代ローマユリウス・カエサルおよび皇帝ネロとなっていた。カール4世に調査を依頼されたフランチェスコ・ペトラルカは、鑑定結果を知らせる手紙に「この御仁はとんでもない大うつけです」と書いている。<以上、引用終わり> 参考: 菊池良生 ハプスブルクをつくった男 講談社現代新書1732 2004年 (ウィキペディアの記載も菊地さんの本からの忠実な転載となっていた)。

補註: というわけで、プラハの英雄的庶民シュヴェイクが、トルコ・ドイツ vs オーストリー・ロシア(+セルビア)・フランスの第一次世界大戦を構想しても、ルドルフ四世の偽書偽造に負けないぐらい奇想天外で面白いのである。実際、このころのヨーロッパの平和(1871年の戦争と1914年の戦争の間の時期)は、複雑な同盟関係(しばしば非公開=秘密条約)の下での危うい勢力均衡の上に成り立っており、どことどこが戦争になるかはプロの政治家でさえ予想がつかない状況だったと思われる。従って、同時代を生きていた庶民シュヴェイクが大きく予想を外したとしても、分からないのが当たり前という状況だったと思う。現実の第一次大戦前後の歴史に関しては、神野さんの世界史劇場「ビスマルク」と「第一次世界大戦」、そして「ロシア革命」と「ナチス政権奪取」の4冊をご参照ください。

補註: シュヴェイクの話術に引き寄せられてすっかり同じお喋り病に罹患してしまいそうな私であった。シュヴェイクの捏造いっぱいのお喋りも含めて、何でもかんでも許してしまいそうなハシェクと私(補註者)ではあるが、理想(=机上の空論)を言えば、天才政治家ビスマルクにあと25年間現役で活躍していただき、パクス・ビスマルカーナを維持してもらいたかった。さすれば、オスマン帝国による緩やかな改革は続いて中東は今よりも安定しており、ロマノフ家も亡びることはなくこれまた緩やかに改革が進行し、ハプスブルク家もホーエンツォレルン家も仲よく喧嘩続ける伝統ある両家であったかもしれないのだが・・現実には、国民全体を巻きこんだ総力戦による激しく長い戦争、革命、虐殺、そして20年をはさんでまた戦争(含・原爆)、革命、虐殺、それからまた戦争(含・冷戦)、革命(体制崩壊)、虐殺の20世紀へと続いてしまった。悲惨である。ヨーロッパの啓蒙時代の過去に夢想されていたような「進歩」は見つけられない。

補註: ロシアとウクライナ(傭兵部隊の背後にはネオコンそしてNATO)の戦争(ロシアにとっては戦争というよりも不思議な「特殊作戦」)が始まり、先行き不透明な暗雲垂れ込める2022年春、現在である。この3月にロシア留学を控えて準備していた友人も、留学は無期延期となった。かれの学業にとっては試練である。

補註: コロナ騒ぎの時には、1921年に書かれたザミャーチン「われら」を念い返し反芻した。そしてこの2022年、まさに100年前(1921〜22年)に書かれたハシェク本を再び開いてみている。あのF.カフカも笑ったという話者ハシェク。100年を経過した現在もなお、私たちにとってさまざまな苦しい経験が続いていくその中にいて、100年後のこの季節にも文学は人の心に力を持って迫ってくる。ハシェク本の場合は、ビールのジョッキを片手に飲んだくれ達の喧騒で満たされた酒場(たとえばシュヴェイクの舞台となったパブ「ウ・カリハ」)で即興に任せて書き綴られたものではあろうが、しかし実に「血をもって書かれた」書物であることの証拠であろう。愉快な笑い飛ばしの中に、本物の「血」が流れているのを感じるのである。文学でしか語れない世界なのかもしれない。

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