読書ノート

うやむやのまま偽書が真書に: 建設公ルドルフ(ハプスブルク家)vs 神聖ローマ帝国皇帝カール4世(ルクセンブルク家)

2020年12月10日 木曜日 曇り

菊池良生 ハプスブルクをつくった男 講談社現代新書1732 2004年

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文書の重み ・・・ 近世はいざ知らず、中世以前は偽造文書というと作者はまず、神官、僧侶と相場が決まっていた。なんといっても神官、僧侶は当時の唯一のインテリであり、そして欲が深い。・・・まことに、神官、僧侶たちがこうした文書の偽造に懸ける情熱たるや凄まじいものがある。自分たちの生存とまっすぐに繋がっている情熱である。・・・自らの信仰を貫き通すために、まずパンを確保する。そのための偽造行為とはまさしく信仰の一環でもある。こうしてできた偽造文書は深い信仰に裏打ちされた、一種の霊感の書と呼んでも差し支えないくらいである。  ところで偽書作成に血道を上げるのは、詰まるところ真書への絶対の信頼があるからである。言葉を揺らぎようのない絶対なものだと信じるところから偽書は生まれる。文書主義とでも言うのか。なにしろ書かれた言葉(エクリチュール)がすべての規範となる。口約束のような生易しいものではない。・・とりわけ「始めに言葉ありき」文明がそうだ。  『旧約聖書』を神との旧い契約書、『新約聖書』を新しい契約書と呼ぶキリスト教は普遍性を徹頭徹尾、書かれた言葉でもって啓示しようとする宗教である。このように書かれた言葉がものごとの根本であるならば、その言葉がちょっとでも変われば、ものごと全体はたちまち、様相を一変させてしまうのである。それならばその言葉をいじることですべてを自分に都合よく変えてしまおう、と思う者が続出するのも無理はないだろう。(補註:このあたり、パラドクシカルな論理の香りが漂う。)全身をキリスト教に染め上げられていたヨーロッパ中世が「偽書の時代」と言われた所以である。そして偽書は何も神官、僧侶の専売特許ではなくなり、世俗も盛んにこれに手を染めることになる。  しかしそうであるからこそ、ひたぶるに偽造しなければならない。文書偽造とはまかり間違えれば世界の秩序を一変させることにもなりかねない、まったく大それた行為なのだ。なにしろ神ならぬ身でありながら、ものごとの根本を変えようとするのである。(菊池、同書、p189-190)

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 「待つことのできる力」を一族に与える:  ・・ハプスブルク家にとって神聖ローマ帝国の枠組みは絶対に必要なものであった・・それは決して破壊の対象ではなかった。・・あくまでも帝国の枠組みの中でハプスブルクの飛翔が肝要であったのである。  ルドルフ(補註:=ルドルフ4世・建設公)もそのことを十分過ぎるほど意識していた。偽文書「大特許状」を駆使してさまざまなパフォーマンスを演じ、ハプスブルクの(神聖ローマ)帝国からの分離独立をも辞さぬと(神聖ローマ帝国)皇帝カール四世に迫ったとしても、それはあくまでも「抜いてはならぬ伝家の宝刀」に過ぎなかったのである。(菊池、同書、p226)

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補註: 

ルドルフ四世: ウィキペディアによると・・・

ルドルフ4世(オーストリア公); 作成: 1360年から1365年まで;  http://www.domschatz.wien/en/domschatz.html http://text.habsburger.net/habsburger-herrscher/rudolf-iv.-habsburg/originalbild

ルドルフ4世Rudolf IV.1339年11月1日 – 1365年7月27日)は、14世紀ハプスブルク家の当主、オーストリア公(在位:1358年 – 1365年)。オーストリア公アルブレヒト2世(賢公)とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトの間の長男。偽造文書の駆使や型破りな行動で知られ、「大公」(Erzherzog)の称号もルドルフ4世の詐称に始まった。「建設公」(der Stifter)と呼ばれる。

急進的政策・・・当時、都市は貴族や高位聖職者に握られていて、彼らの何代にも及ぶ圧力に耐え切れず廃業する商工業者が跡を絶たなかった。ルドルフ4世は1360年夏、オーストリア内のすべての土地の地主に対して、領主権の放棄と買主の求めに応じた土地の売却を命じ、1ヶ月のうちにこれに従わない地主は土地へのあらゆる権利を失うとした。さらに、その土地の名義変更は直接ルドルフ4世本人あるいはルドルフ4世の全権委任者の前で行うとし、建築促進のために全ての新築物件は向こう3年間は無税とする条例を発した。地主階級はこれには猛烈に抵抗し、条例は修正を余儀なくされたが、彼らはルドルフ4世の強権ぶりに恐怖した。

次は、オーストリア公の特権である貨幣改鋳権の放棄と、その代償としての消費税の導入であった。オーストリアでは毎年6月24日に市中に出回っている貨幣の改鋳が行われた。オーストリア公国の政府は常に、それまでより金銀の含有量の少ない新貨幣を発行するが、旧貨幣の所有者は新貨幣と等価交換をしなければならなかった。これに対しルドルフ4世は1361年春、貨幣改鋳権の放棄をする用意があると宣言し、代わって全ての料理店、食堂、酒屋、宿屋で売られるアルコール飲料に1割の消費税を課すこととした。これは、貨幣価値の毎年の下落を快く思わない庶民にとっても歓迎されるべきものだった。

1361年夏には、ウィーン市の全てのツンフト(同業組合)に適用されるツンフト禁止条例を発した。新参を許された商工業者は、ウィーンでの開業の日から3年間、市民税と財産税が無税となる画期的なもので、織田信長の「楽市・楽座」と同じ発想のものであった。

父の治世の1349年ペストの流行があり、生き残った人々は恐怖から神への帰依をいっそう深いものにし、財産を教会に寄付したりしていた。また、1361年にはウィーンで大火事が頻発した。その上に凶作が相次ぎ、ワイン収穫量は激減して市の経済を直撃した。この危機にルドルフ4世は、賢公が1340年に発した、聖職者への財産寄贈を規制した条例を拡大し、一般市民同様税金を払うべし、という条例も発した。この条例は、ウィーン市以外の都市にも広まっていった。さらに、政府管轄外の教会の裁判権の規制も行う。教会裁判権の規制、剥奪は、教会組織を「国家」に組み込むことを目指した、きわめて近代的な政策であった。これに対する教皇庁の介入阻止のための根回しも怠らず、ルドルフ4世は弟アルブレヒト3世や甥エルンスト鉄公のように教皇破門されることを免れた。高位聖職者が再び免税特権を手にするのは、4年後のルドルフ4世の死の後であった。

時代精神に反するこれらの政策は、ルドルフ4世の死後元に戻ったり骨抜きにされた。しかし、土地吐き出しの政策、ツンフト禁止令、貨幣改鋳権放棄と消費税導入、高位聖職者と貴族の免税特権廃止、教会の裁判権規制の発想は残った。そのため後世、ハプスブルク家は他の王侯に先駆けて教会組織を王朝組織に組み入れることができた。また、ルドルフ4世の急死で無用の混乱が起こらずにすみ、改革の発想がソフトランディングする道を残した。

「大公」詐称・・・ハプスブルク家はルドルフ1世アルブレヒト1世フリードリヒ3世の3人のローマ王を出した名家になっていたが、ルドルフ4世はカール4世の娘カタリーナを妃としながらも、金印勅書が定める7人の選帝侯には含まれていなかった。しかし父・賢公の死の翌年1359年、ルドルフ4世は家臣に対し「我はオーストリア公、シュタイアーマルク公ケルンテン公、クライン公、並びに帝国狩猟長官、シュヴァーベン公アルザス公、かつまたプファルツ大公である」と宣言した。

後ろの4つは明らかに官名詐称であった。しかも「大公」(Erzherzog)という称号はそれまで存在すらしなかった。司教(Bischof)の上に大司教(Erzbischof)があるように、多くの公(Herzog)を兼ねるハプスブルク家の当主こそ「大公」を名乗るべきである、というのがルドルフ4世の主張だった。加えて、ハプスブルク家は7選帝侯を上回る特権、自領内で爵位を授け、封土を与える権利を有している、とも主張した。さらに、公爵が通常かぶる公爵帽に代えて大公冠を作った。

カール4世がこれに対して証拠を提出するように言い渡すと、ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、全て偽造だった。しかも、特許状はよくできた偽書だったが、手紙の差出人はそれぞれ古代ローマユリウス・カエサルおよび皇帝ネロとなっていた。カール4世に調査を依頼されたフランチェスコ・ペトラルカは、鑑定結果を知らせる手紙に「この御仁はとんでもない大うつけです」と書いている。

罰を下そうにもルドルフ4世に服するつもりがないのは明白だったが、ルドルフ4世はドイツ内外の様々な王侯と同盟を結んでおり、武力討伐も容易ではなかった。カール4世は決定的な対決を避けて寛容政策で臨み、ハプスブルク家の与党ヴュルテンベルク伯エーバーハルト2世英語版)を討つにとどめた。結局、この時のルドルフ4世の詐称はうやむやにされたが、後にハプスブルク家出身の皇帝フリードリヒ3世の時代に、ルドルフ4世の偽造文書は「大特許状」として帝国法に組み込まれ、「大公」はハプスブルク家にだけ許される正式な称号となった。

神聖ローマ帝国皇帝・カール4世; Bohemian art of the gothic and early renaissance periods, Press Foto, Praha 3. detail から: File:Anonym – Votive Painting of Archbishop Jan Očko of Vlašim.jpg;Charles IV-John Ocko votive picture-fragment; 製作は1371年より前。
カール4世; 最初の妻ブランシュ・ド・ヴァロワとカール

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