2016年3月11日 金曜日 晴れ
小林惠子 争乱と謀略の平城京 称徳女帝と怪僧・道鏡の時代 文藝春秋 2002年
高野天皇(阿倍内親王)と淳仁天皇(大炊王)
「仲麻呂の乱」は高野の淳仁に対するクーデターで、仲麻呂を謀反人とするのは筋が通らない
新羅・渤海がそれぞれ使者を送りこんで政治介入
(新羅王子の)金泰廉は七百人もの員数を率いて、まだ唐国が孝謙を日本国王に承認しないうちに、(日本に亡命している)孝成王を即位させようと来日したと思われる。(小林惠子、同書、p114)・・しかし、同年九月に渤海から大和朝廷応援の使者が来日した。・・新羅に対抗して仲麻呂の大和朝廷の援護のために来日したのである。
淳仁即位が新羅との対立を決定的にすることは、仲麻呂の計算のうちにあった。(小林、同書、p148) ・・「続日本紀」は、田守の渤海行きをなぜ明記しなかったのか。・・大和朝廷は渤海と日本は同格と考えていたから、「続日本紀」の編者は、淳仁即位の了承を求めて渤海に送使した事実を明記したくはなかったと私は推測している。(小林、同書、p149)
戒融の消息を尋ねる金才伯ら新羅使は七月に来日しているが、帰国した月日の記載はない。 二か月後の九月に仲麻呂は反逆者として殺されるのだから、金才伯らは明らかに唐国の仲麻呂政権否定を大和朝廷に知らせるためと、具体的には仲麻呂討伐のために来日したと推定される。・・唐国の意志が、大和朝廷の実力者仲麻呂をして謀反人として追わせる鍵になったのである。・・唐国・新羅系で仲麻呂は包囲された。しかも唐国による仲麻呂政権打倒の大義名分も整った。あとは国内で反仲麻呂派が蜂起するのを待つばかりとなったのである。(小林、同書、p183)
天皇位を象徴する鈴印は、はじめは当然ながら、淳仁天皇の中宮院に存在していた。それを奪ったのは高野上皇側なのだから、正確に言えば「仲麻呂の乱」は高野の淳仁に対するクーデターで、仲麻呂を謀反人とするのは筋が通らない。常に敗者は謀反の罪を着せられて処断され、悪名だけが後世に残るものなのである。(小林、同書、p185)
*****
補注 橘奈良麻呂の乱 ウィキペディアによると・・・
橘奈良麻呂の乱(たちばなのならまろのらん)は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。
<以上、引用終わり>
補注 大伴古麻呂 ウィキペディアによると・・・
仲麻呂は孝謙天皇の信任が厚く、専横が著しかったため、古麻呂はこれに不満を持ち兵部卿・橘奈良麻呂と結んで仲麻呂を除こうと画策する。奈良麻呂・古麻呂らが一味して兵を起こして仲麻呂を殺して皇太子を退け、孝謙天皇を廃し、塩焼王・道祖王・安宿(あすかべ)王・黄文王の中から天皇を推戴するという計画であった。
同年6月、古麻呂は鎮守将軍兼陸奥按察使兼任となり、陸奥国への赴任を命じられ、橘奈良麻呂は左大弁に移され兵権を奪われた。7月3日、山背王らの密告により反乱計画は露見。奈良麻呂・古麻呂・道祖王・黄文王らは捕えられ、翌日、杖で何度も打たれる拷問の末、絶命した。(橘奈良麻呂の乱)
<以上、引用終わり>
補注 淳仁天皇 ウィキペディアによると・・・
淳仁天皇(じゅんにんてんのう、天平5年(733年) – 天平神護元年10月23日(765年11月10日))は、日本の第47代天皇(在位:天平宝字2年8月1日(758年9月7日) – 天平宝字8年10月9日(764年11月6日))。古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれる。諱は大炊(おおい)であり、践祚前は大炊王(おおいおう)と称された。・・・(中略)・・・保良宮(補注:ほらみや)滞在中に病みがちとなった孝謙上皇を看病していた弓削道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により天皇は孝謙上皇にこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。天平宝字6年6月3日(762年6月28日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。・・・(中略)・・・(恵美押勝の)乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字8年10月14日(764年11月11日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
<以上、引用終わり>
補注 孝謙天皇 ウィキペディアによると・・・
孝謙天皇(こうけんてんのう)、重祚して称徳天皇(しょうとくてんのう;稱德天皇、養老2年(718年) – 神護景雲4年8月4日(770年8月28日))は、日本の第46代・第48代天皇。
在位期間は、孝謙天皇として天平勝宝元年7月2日(749年8月19日) – 天平宝字2年8月1日(758年9月7日)、称徳天皇として天平宝字8年10月9日(764年11月6日) – 神護景雲4年8月4日(770年8月28日)。
父は聖武天皇、母は藤原氏出身で史上初めて人臣から皇后となった光明皇后(光明子)。即位前の名は「阿倍内親王」。生前に「宝字称徳孝謙皇帝」の尊号が贈られている。『続日本紀』では終始「高野天皇」と呼ばれており、ほかに「高野姫天皇」「倭根子天皇(やまとねこのすめらみこと)」とも称された。
史上6人目の女帝で、天武系からの最後の天皇である。この称徳天皇以降は、江戸時代初期に即位した第109代明正天皇(在位:1629年 – 1643年)に至るまで、実に850余年もの間、女帝が立てられることはなかった。
<以上、引用終わり>
*****
**********