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小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(3)

2018年12月31日 月曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

・・日本語の文法学的な事実のいくつかにメスを入れることで、日本語が人間探究の学としての「哲学」によくかなっているさまをさらに解き明かすことにしましょう。情緒的だから哲学に向かないという、欧米スタンダードにもとづいた評価から少しでも脱却すべく。(小浜、同書、p164)

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品詞分類批判

・・文をその構成要素にまで分解し、それらを組み合わせて、再統合されたものとして文の構造を理解するという近代西洋由来の文法学の方法それ自体が、日本語について考えるのに適していないのではないか。(小浜、同書、p167)

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本居宣長の「玉と緒」

時枝誠記(ときえだもとき)の詞辞論 

「詞」が宣長のいう「玉」に、「辞」が「緒」に該当する。

小浜流に言い直すと、詞は、「客体化・対象化の過程を経た語群の形式」、辞は、「客体化・対象化の過程を経ずに主体の情意が直接的に表出された語群の形式」。

日本語は、細かく単語に分解し、それに一つ一つの品詞分類を伴わせることには向かない言語。(小浜、同書、p171)

厳密に「詞」(品詞)と呼べるものは、名詞、動詞、形容詞の三つ。(小浜、同書、p186)

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・・特に辞に相当する言葉、および動詞の一部や特殊な名詞においては、同一音韻、同一アクセントの語は、偶然の一致を除き、品詞や用法が違っても、もとをたどればほぼ同じ観念やことがらを表している。(小浜、同書、p186)

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2019年1月1日 火曜日 曇り時々雪

補註 お正月、ゆっくりと日本語や英語の文法や語彙の語源を調べたり、ドストエフスキーの小説(Idiot、英訳のオーディブル版)を聴いたりして過ごしている。

初詣は大谷地神社に参る。境内には幾種類もの松やトウヒなどの針葉樹が自然樹形で堂々と立ち並んでいる。この地が先祖の人々によって開拓されてから早、百数十年の月日が流れ、この松たちも風雪に耐えながら巨木に育ってきたことを念う。

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繰り返しますが、いわゆるテニヲハは、音韻が同じなら、後の文法学がどんな精密な整理や区別を施そうと、原初的には同じ観念を表していたと推定できるのです。アルカイックな時代には、生活も衣食住を中心にした単純素朴なものだったでしょうから、身体とその周辺の動きや状態、様子などにかかわるものが多かったと考えられます。(小浜、同書、p218)

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 コソアドが・・厳密に区別されて使われるということは、やはり日本語が、・・その時々の相手との関係を重んじる言語であることを示しています。・・このことは、・・言語の本質、つまり、言葉とは、情緒を基礎とした関係の創造、維持、時には破壊のために音声表出することであるという定義にかかわることです。(小浜、同書、p223-224)

日本語の人称詞の、これらの複雑な転換・転用は、やはり、いつも相手の立場に立つ、または「向き合っている」という関係を過度なほどに意識する修正から来ていると考えられます。(小浜、同書、p226)

 こうした面、つまり基本的な人間関係の認識をしっかりさせるという意味では、日本語はけっして論理的でないとは言えません。コソアド体系の存在は、むしろその部分が堅固にできている証左だといえるでしょう。ただ、手前、お手前のように、相手の立場に配慮するあまり、かえって人称の使い分けを難しくしているとも言えます。この難しさを克服するためには、単に「認識の発達」を促すだけでは足りず、長きにわたる深い情緒的な接触を通して、「関係の発達」を促すようにしなくてはならないでしょう。(小浜、同書、p228)

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