biography

アッシジのフランチェスコ

2017年1月2日 月曜日 曇り

川下勝 アッシジのフランチェスコ 人と思想184 清水書院 2004年

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尊敬と協調 回教徒や非キリスト教徒のもとに行く兄弟について
・・その宣教を「霊的に生きる」ことであると定義している。しかも、語ることよりも生きることが優先されている。  かれの考えに従えば、「霊的に」という表現は、自己中心的な考えや生き方から脱却することを意味する。・・さらに、一切の口論や争いをすることなく、信条を異にする人々との協調の中で生きなければならず、そのように生活した上で、もし神の望みにかなっていると考えた場合には、キリストの教えを伝えるように、と説くのである。  この短い文章には、フランチェスコの他宗教とその信徒たちへの深い尊敬とかれらと平和のうちに生きようという強い願望が現れている。(川下、同書、p99)

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物質軽視と肉体軽視 vs フランチェスコの自然とのかかわり
キリスト教の中に根強く残ったプラトン主義的二元論の流れと自然を戦いの相手とみる傾向は、中世キリスト教の中で、無意識のうちに、自然、物質、肉体を軽視し、敵視する土壌を作っていったのである。・・フランチェスコの小鳥への説教や狼との対話の逸話は、自然を悪としてではなく、神が創造した良いものとして捉えたかれの自然観を、象徴的に表しているといえよう。(川下、同書、p116)

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償いの兄弟・姉妹の会には、どのような階層の人でも入ることができた。ここにも、フランチェスコが大切にしていた「すべて兄弟である」という理念が生きていた。・・この会は、歴史の経過とともに世界の各地で設立されることになる。会員には、十字軍従軍中に死去したフランスのルイ王やラファエロ、ミケランジェロ、ムリリョ、コロンブス、また近世ではヴォルタ、パレストリーナ(補註*)、リストなどのような人々がいる。(川下、同書、p129-130)

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クリスマス、キリスト降誕のミサ
クリスマスのミサをこのように写実的に捧げる習慣は当時すでにあったことが知られている。この習慣が世界的な広がりを持つようになるのは、グレッチオでの深夜ミサからであろう。フランチェスコの弟子たちは、キリストの言葉を携えて、世界各地に赴くが、かれらは自分たちの師父にならってこの心温かい習慣を広めたのである。(川下、同書、p135)

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人々を魅了するもの
・・この有能な弟子に、それは私が誰よりも罪深く、人間の中で一番みじめだからだよ、とフランチェスコは答えた。(川下、同書、p142)

補註 フランチェスコ・・キリスト教史上で最も魅力的で、しかし(この本で伝記を読んだ程度では)私には理解できていない人・・これからもう少し踏み込んでいきたい。

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ルネッサンス以降、十九世紀までは、絵画の世界以外では、フランチェスコは重要視されなくなる。ヨーロッパにおける宗教改革に伴うキリスト教の分裂は大きな悲劇をもたらすことになる。(補註##)(川下、同書、p143)・・ 十八世紀になるとフランチェスコに対する興味が蘇り始め、十九世紀には文学の世界で取り上げられるようになる。特にドイツとフランスでは顕著であった。またカトリック教会と距離を置いていた学者や文学者の間でフランチェスコの研究が盛んになったことは興味深い。フランスのエルネスト・ルナン、ポール・サバティエ、ドイツのヨゼフ・ゲレス、カール・フォン・ハーゼなどはその代表的な人々である。(同、p144-145)

補註## フランチェスコの徳が及ぶことなく、300年後には激しい宗教改革戦争と世界侵略の嵐へと突入していくのはなぜか。

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補註 Question
巻末の年表によると・・
フランチェスコ、エジプト・パレスティナ・シリアへ伝道に出かける(1219-1220)、とある。この伝道は具体的にどのようなものであったのだろうか。フランチェスコはどのように生きたのであろうか。

補註 Question 
十字軍について調べておきたい。

補註 Question
巻末の年表によると・・フランチェスコ、1226年10月3日、ポルチウンクラで死去、10月4日、聖ジョルジョ教会に埋葬される。1230年、聖フランチェスコ大聖堂の建立、フランチェスコの遺骸、大聖堂に移される、とある。しかし、写真で見ると、聖フランチェスコ大聖堂は石造りの巨大な建築で、完成までには少なくとも数十年から百年はかかりそうな建物である。従って、当該年表の記載には若干の修正ないし注釈が必要であるかもしれない。
ウィキペディアによると・・・サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)は、1228年に教皇グレゴリウス9世によって建築が始まり、1253年に一応の完成をみたと言われている。・・その後、何度も改修が行われて現在の姿になった。聖堂は、町の北西の斜面の上に建ち、斜面を有効に利用するため建物は上下二段に分かれている。上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式・・とのこと。

フランチェスコの信仰生活のスタートは、教会の修復から始められたのであるが、たとえばこの聖フランチェスコ大聖堂など巨大な教会施設などの新規建立について、フランチェスコならどのように受けとめたのであろうか。あるいは、取り組んだのであろうか。

補註 Question
古代の建築に関して、技術面(工学・安全設計)、そして経済(財政・収支)を含めて、総合的に調べておきたい。特に経済に関しては、富(財)がどのような流れで流れ込んだか、どのようなひずみを生んだか(生まなかったか)など、ミクロではなくセミ・グローバルな観点から理解したい。

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補註* パレストリーナは誰?
・ヴォルタ(18世紀後半-19世紀)とリスト(19世紀)に挟まれて記載されているパレストリーナなる人物は、文脈上からは、19世紀の人物と思われる。従って、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家(16世紀)ーーーとは違う人物のようである。有名人のようだが、誰を指しているのか不明である。
・ アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ヴォルタ伯爵(Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta、1745年2月18日 – 1827年3月5日)。
・ フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt、ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 – 1886年7月31日)。

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