読書ノート

いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮らして行く事ほど、楽しいものはありません。

2021年2月3日 水曜日 雪

太宰治 きりぎりす ちくま文庫版太宰治全集4 1988年(オリジナルは昭和15年)

・・きっと、この世では、あなたの生きかたのほうが正しいのかもしれません。けれども、私には、それでは、とても生きて行けそうもありません。(太宰、同書、p7)

・・いまは、だめ。なんでも欲しいものを買えると思えば、何の空想も湧いて来ません。市場へ出掛けてみても私は、虚無です。よその叔母さんたちの買うものを、私も同じ様に買って帰るだけです。・・私の、腕の振るいどころが無くなりました。(太宰、同書、p12)

・・私は、ばかだったのでしょうか。でも、ひとりくらいは、この世に、そんな美しい人がいる筈だ、と私は、あの頃も、いまもなお信じて居ります。その人の額の月桂樹の冠は、他の誰にも見えないので、きっと馬鹿扱いを受けるでしょうし、誰もお嫁に行ってあげてお世話しようともしないでしょうから、私が行って一生お仕えしようと思っていました。(太宰、同書、p12)

・・私は胸がつまって、それから悲しくなりました。これではまるで、そこらにたくさんある当たり前の成金と少しも違っていないのですもの。(同書、p16)

・・三百枚。いつのまに、そんなにお知り合いができたのでしょう。・・あなたは、そんな俗な交際などなさって、それで成功なさるようなお方では、ありません。そう思って、私は、ただはらはらして、不安な一日一日を送っていたのでございますが、あなたは躓かぬばかりか、次々と、いい事ばかりが起こるのでした。私が間違っているのでしょうか。(太宰、同書、p16)

・・私だって、なんにも、ものを知りませんけれども、自分の言葉だけは、持っているつもりなのに、あなたは、全然、無口か、でもないと、人の言った事ばかりを口真似しているだけなんですもの。(同書、p17)

・・なんでそんなに、お金にこだわることがあるのでしょう。いい画さえ描いて居れば、暮らしのほうは、自然に、どうにかなって行くものと私には思われます。いいお仕事をなさって、そうして、誰にも知られず、貧乏で、つつましく暮らして行く事ほど、楽しいものはありません。私は、お金も何も欲しくありません。心の中で、遠い大きいプライドを持って、こっそり生きていたいと思います。(同書、p18)

・・あなたは清貧でも何でも、ありません。憂愁だなんて、いまの、あなたのどこに、そんな美しい影があるのでしょう。あなたは、その反対の、わがままな楽天家です。(同書、p20)

それが。ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。(太宰、同書、p24)

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