2020年3月4日 水曜日
高村光太郎 詩集 智恵子抄 1999年 日本図書センター(オリジナルは明治45年から昭和16年)
光太郎千恵子はたぐいなき夢をきづきてむかし
此所に住みにき
(高村光太郎、同書、p104)
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わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し
闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つになつた
(山麓の二人、高村、同書、p89)
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あどけない話
・・
どんよりけむる地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ。
智恵子は遠くを見ながら言ふ、
阿多多羅山の山の上に
毎日出てゐる青い空が
智恵子のほんとの空だといふ。
あどけない空の話である。
(あどけない話、同書、p74-75)
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あなたによつて私の生(いのち)は複雑になり 豊富になります
そして孤独を知りつつ 孤独を感じないのです
(人類の泉、同書、p42)
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補註: 光太郎のアトリエがあったのは本郷林町(本郷區・駒込林町)【消滅した年】1965(昭和40)年
【現在の町名】千駄木の一部
【町名の由来】江戸の頃、千駄木一帯は雑木林であり、とくにこの辺りは御林と呼ばれていたらしいです。とのこと。
私は1975年から10年ばかり駒込駅の近く(町名は北区中里)に住んでいたので、田端の高台経由で谷中上野方面を良く走っていたものであった。光太郎氏のアトリエは昭和20年の空襲で焼けてしまったのだが、その跡地にアトリエ跡の標識が掲示されていた。その前の小道を通るたびに
光太郎千恵子はたぐいなき夢をきづきてむかし
此所に住みにき
を思ったのであった。だから、私個人的には光太郎さんのアトリエは谷中、というイメージがあるのである。森まゆみさんの「人町(ひとまち)」という谷中界隈の写真集も私の少ない蔵書の中の一冊。
ところが、今から数年前、L氏に伴われて、本郷から根津に抜けて北上し、千駄木方面から谷中に歩いて行ったことがあって、なるほど、千駄木の一部となった「駒込林町」という町の区画がイメージできたのである。この時は徳川慶喜のお墓に参り、また、解剖慰霊の仙人塚に墓参した。
補註: お墓参りといえば、札幌に就職が決まって東京から引っ越す直前(だから今からちょうど20年前の3月・・年月が過ぎるのは早いものだ・・)、吉祥寺にある「白ネズミの墓」へもお参りしてきた。以来、Balb/c白ネズミたちには大変な苦労をかけたものの、墓参の機会がなくて今になってしまった。私たちの抗体医薬の幾つかの臨床研究や基礎研究が進みつつある今の充実は、白ネズミたちのおかげも大きいので、また機会を得て吉祥寺にもお墓参りしたい。
補註: 先々月(2020年1月末)にまた染井霊園(巣鴨駅で降りて少し北へ歩く)の高村家のお墓に参った。その朝は冬の東京らしいすばらしい快晴で、北海道のどんよりとした曇り空を見慣れている私には、とてもすがすがしい(暖かい1月の)青空であった。白ウメの花が満開。香り。そしてやはり智恵子の「あどけない空の話」を思い、くちずさんでみたのだ。
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