culture & history

万葉集が潜在させている歴史的事実を解明する試み

2016年3月8日 火曜日 曇り

小林惠子 本当は怖ろしい万葉集 歌が告発する血塗られた古代史 祥伝社 2003年

「万葉集」は多岐にわたって長年、研究されてきた。 しかし、このような「万葉集」の積年の研究に私の入り込む余地はない。  本書は「万葉集」研究家が長年にわたって、積み上げてきた研究成果を基にして、「万葉集」の編纂者が密かに語ろうとしている政治裏面史を解明しようとするものである。・・ただし「万葉集」の歌に内在している歴史的事実をいかに具体的に読み取るかが最も重要でむつかしい問題なのである。何となく想像するのは誰にでもできる。一定の法則をみつけだし、それによって恣意と独断に陥らない解釈をしなければならない。・・私の目的は「万葉集」という歌集の研究ではなく、「万葉集」が潜在させている歴史的事実を明らかにしようとすることにある。(小林、同書、序章、p17-18)

この額田王の歌は表の意味だけで判断できる。それは額田王が天智天皇の血縁だったことは当時、誰もが知っていた事実だからである。額田王の歌に限らず、裏読みをする場合は大体、政治的に公表できない内情を密かに通報しようとする場合のようである。それだけにその解読は政治史解明において必須なのである。 (小林、同書、p46)

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「書紀」天智三(六六四)年二月条に「天皇、大皇弟に命して」冠位(位階)の改定を行ったとある。・・ここに天皇とあるのが誰を言うのか、古来、問題とされてきた。・・このような改定が行われるのは通常、新天皇が即位したときである。・・
中皇命(なかつすめらみこと)の紀の温泉に往きたまひし時の御歌
10 君が代もわが世も知るや磐代(いはしろ)の丘の草根をいざ結びてな
・・・ここは何といわれても推理するしか手はないのである。「万葉集」の編者は間人皇女を、天皇を意味するナカツスメラミコトと振仮名して、「書紀」より一歩進んで間人皇女即位の事実を後世に伝えようとしたようだ。(小林、同書、p96-97、p105)

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「書紀」は「三国志」を参考にして、甘露と無実の罪で殺される高貴な女性をセットさせている。甘露の記述からみて十市皇女は病没でなく殺されたらしい。
156 みもろの三輪(みわ)の神杉(かむすぎ) 夢にだに見むとすれども 寝(い)ねぬ夜ぞ多き
(小林、同書、p156)

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補注 間人皇女 ウィキペディアによると・・・
間人皇女(はしひとのひめみこ、生年不詳 – 天智天皇4年2月25日(665年3月16日))は飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇の皇后。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
・・『万葉集』に「中皇命(「なかつすめらみこと」の訓が一般的)」とある人物が間人皇女のことを指すのではないかとする説が荷田春満以来あり、土屋文明などによって広く支持されている。さらに「中皇命」の号をもって、母・斉明の崩後に葛城皇子が即位する環境が整うまでの中継ぎとして一時的に皇位に就いていたとする説が押部佳周・小林敏男らによって展開されているが、『万葉集』の註には斉明天皇作との旨が記されているなどの異伝も見られ、必ずしも確証があるわけではない。斉明天皇を中皇命とする説も沢潟久孝をはじめすくなくない。なお、中皇命については中大兄そのひとを指すのではないかとする東野治之や大平聡らの説も近年提出されている。
天智天皇4年2月25日(665年3月16日)に薨去し、斉明天皇陵である越智岡上陵に合葬された。<以上、引用終わり>

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補注 十市皇女 ウィキペディアによると・・・
十市皇女(とおちのひめみこ、653年(白雉4年)? (大化4年(648年)説も) – 天武天皇7年4月7日(678年5月3日))は、飛鳥時代の皇族。天武天皇の第一皇女(母は額田王)、大友皇子(弘文天皇)の正妃。
・・天武天皇7年(678年)、天皇が倉橋河の河上にたてた斎宮に出向こうとした当日である4月7日朝に急死。日本書紀には「十市皇女、卒然に病発して、宮中に薨せぬ」と記されていた。このため天皇の行幸は中止となり、斎宮での祭りもなくなった。皇女は4月14日に大和の赤穂の地に葬られた。この際父の天武天皇が声を出して泣いたという。死亡時、十市皇女はまだ30歳前後であり、この不審な急死に対しては、自殺説・暗殺説もある。
彼女の死を悼んで、高市皇子が熱烈な挽歌を捧げている(『万葉集』卷2)。このことから、夫・大友皇子との不仲説や、高市皇子との恋人説、夫婦説がある(一方で高市皇子の片思いという説もあり)。 <以上、引用終わり>

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