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雁がねは使いに来むと騒くらむ秋風寒みその川のへに

2016年3月8日 火曜日 曇り

小林惠子 大伴家持の暗号 編纂者が告発する大和朝廷の真相 本当は怖ろしい万葉集完結編 祥伝社 2006年

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大伴家持の暗号

「万葉集」に初めて登場した家持は、何を歌ったか
一五六六 
雁は日本で子育てしない鳥で、しばしば外国勢に擬せられる
秋は五行説で天智系を表す
・・・この後、間もなく家持は大和朝廷に出仕することになるのだが、家持の深層心理には、常に長屋王に仕えた父親の旅人由来の天智系支持が密かに脈打っていたようである。しかし、不遇な環境に育った家持は世渡りには慎重で、若い時から私情は胸の内に深く収め、時期が来るまで表に出そうとは思わなかったようだ。結局その時期は、家持の生涯を通じて、ついに来ることはなかったのである。(小林惠子、同書、p85)

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(安禄山は)七四二年(天宝元)年、柳城太守になるや、渤海や黒水靺勝(こくすいまつかつ)などの土着勢力を唐朝の名において攻め、支配下に置いた。・・ただし景徳王の新羅のみは、最後まで安禄山に支配されることはなかった。(小林惠子、同書、p156)

記録された異民族による侵略
 安禄山が柳城太守に任命されると、早くも天平一八(七四六)年、「続日本紀」の是歳条に「渤海・鉄利など千百人以上が出羽国に来朝した。出羽国に留め、衣食を与えて解放した」とある。 鉄利とは突厥の中の鉄勒(てつろく)のことと考えられている。 ・・おそらく・・安禄山が、日本攻略のために彼らを軍勢として送り込んできたのである。・・「続日本紀」には、天平一八年正月は廃朝(朝賀の儀式を止める)と地震の記述がみえる。・・このように「続日本紀」は具体的な事件の内容は記していないが、ばくぜんと国難があることを暗示している。(小林、同書、p158)

家持の任務は越中守だけではない。最大の任務は安禄山勢対策だったのである。・・
3953 雁がねは使いに来(こ)むと騒くらむ秋風寒みその川のへに
・・しかし問題なのは、雁が「使いに来たい」といっているということである。これは単なる言葉のあやではない。 中国東北部の渤海から日本に渡るのは、秋から冬にかけての北風を利用する場合が多い。したがって、「雁」は安禄山が派遣する軍勢をいい、「秋風が吹くと、外国勢が日本に使者と称して渡ろうと計画して騒いでいるだろう」と予測した歌と解釈される。「使者」とあるが、この場合、大和朝廷が招聘した正式な使者ではないので、一方的な侵略を意味する。(小林、同書、p166-167)・・・家持が重態になり、ほとんど死にかけたという注釈がある。・・家持は一族を率いて、天平一八年の暮れに出羽に上陸してきた安禄山勢と戦ったが勝利せず、自らは重症を負ったというのが真相なのではないか。(小林、同書、p168-169)(補注:この辺りの歴史的考察は同じ小林惠子の「争乱と謀略の平城京」文藝春秋 2002年 p106-107にも解説されているので参照下さい。)
・・・
3963 世間(よのなか)は數なきものか春花の散りの亂(まが)ひに死ぬべき思へば
3964 山川の退方(そきへ)を遠み愛(は)しきよし妹を相見ずかくや嘆かむ
・・ここにみえる歌の深い悲しみと絶望感は、自分の体調よりも、安禄山勢との戦いに敗れた挫折感に打ちひしがれていたからではなかったか。(小林、同書、p170)
・・・
3983 あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでになにか来鳴かぬ
3984 玉に貫(ぬ)く花橘を乏(とも)しみしこのわが里に来鳴かずあるらし
・・・しかし霍公鳥が鳴かないからといって、恨むほどの事件ではありえない。家持は恨むといっている。それは霍公鳥で聖武を、橘で橘諸兄を指しているからである。霍公鳥の聖武が来ないという意味は、四月になっても大和朝廷から何の指示もないと家持は焦っているのである。(小林、同書、p170-171)・・・聖武は密かに家持が安禄山勢と戦うのを後押ししながら、唐国への関係を維持しようとする二重外交を画策していたのだ。ところが家持が安禄山勢と和議せざるを得なかったので、聖武は失望し、対応の指示が遅れたのだろう。(小林、同書、p173)

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補注:

歌われた背景と切り離しては理解できない歌もある:
従来、歴史家は歌の内容に深く立ち入ろうとせず、解釈は国語学者まかせであった。一方で国語学者たちの多くは往々にして、歌の背景の政治的状況に深く立ち入ることなく、歌われている意味を表面的に文字に表されている内容それだけの歌として解釈を終えてきた。歴史学者・国語学者の両者で深め合う協力体制が十分でなかったことから、「万葉集」理解は、意味不明で止まっていることが多いように思う。私のような素人が聞いても歌の内容は皮相ないし了解不能で、謎は深まるものも多い。

東アジア文化圏の魂振り歌:
白川静さんの「万葉集」へのアプローチは、東アジア文化圏としての大きな視点から、文字文化の詳細な検討に基づき、最古の「詩経」の研究から、わが国の「万葉集」の理解へと進んでゆく学術的なものである。依って立つべき基盤的な知識と視座を私たちに提供してくれる。

政治的背景の中で詠まれた歌:
一方、小林惠子さんの「大伴家持の暗号」(以下、同書)は、「万葉集」の時代に政治史の視点から光を当てて解読解説してゆくもの。五行説や讖緯思想にもとづく当時の人々の感じ方考え方を、1300年以上も後に生きている私たちが、今になって解明する試みは大変難しい。多くの場合、解明しきれない不確かな部分が残ってしまう。しかし、今までの私が経験・訓練してこなかった、大変新鮮な視点である。私にとっては、広い意味での歴史と文化の理解・解読のための丁寧な入門手引き書になってくれている。

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「・・・海行かば 水浸(みつ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ 顧みはせじ・・・(4094)」・・・私からみれば家持は、他人を忠君愛国に駆り立てる歌人としての面と、自身は大和朝廷内の一員、そして大伴氏の氏上という立場から現実に妥協するという二面性のある人物ではないかという疑念を常にもっていた。
 ところが家持個人に集中して「万葉集」をみていくうちに、意外な実像が浮かび上がってきた。それは橘諸兄の政治姿勢に習ったものかもしれないが、天皇個人よりも日本国の独立と安泰を守ることに執念を燃やすという一貫した姿勢だった。「大君の・・」とは事実上、「わが祖国の・・」という意味だったのだ。ところが後年、太平洋戦争で忠君愛国の歌として喧伝されたのである。
 そういえば家持は「大君の辺(側)」で死んでもいいと詠っているが、「大君の為に」とは言っていない。大君、つまり天皇が日本国のために戦う側(そば)で共に戦い、死んでも後悔しないというのが、この歌の本来の意味だったのだ。(小林、同書、p233-234)

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補注: 海行かば・・・ウィキペディアによると・・・ <以下引用>

原歌
陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌(大伴家持)

葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らし召しける 皇祖の 神の命の 御代重ね 天の日嗣と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る みつき宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ 皇祖の 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして 武士の 八十伴の緒を まつろへの 向けのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 丈夫の 清きその名を 古よ 今の現に 流さへる 祖の子どもぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我れをおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの聞けば貴み 

葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、そのような祖先の末裔であるぞ。大伴と佐伯の氏は、祖先の立てた誓い、子孫は祖先の名を絶やさず、大君にお仕えするものである と言い継いできた 誓言を持つ職掌の氏族であるぞ 梓弓を手に掲げ持ち、剣太刀を腰に佩いて、朝の守りにも夕の守りにも、大君の御門の守りには、我らをおいて他に人は無いと さらに誓いも新たに 心はますます奮い立つ 大君の 栄えある詔を拝聴すれば たいそう尊くありがたい

<以上、ウィキペディアより引用>

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補注: 霍 (音読み)「カク」(訓読み)「にわか」 はやい(白川 字統 p112より)
 鳥の群飛する意。おそらく渡り鳥が群飛するさまを形容する語であろう。(白川、同上)

補注: 霍公鳥 ホトトギス

ほととぎす の漢字表記について <以下WEBより引用>

〈杜鵑〉・〈時鳥〉・〈子規〉・〈不如帰〉・〈杜宇〉・〈蜀魂〉・〈田鵑〉・〈霍公鳥〉・〈霍公〉・〈郭公〉・〈杜魂〉・〈布谷〉・〈無常鳥〉・〈黄昏鳥〉・〈夕影鳥〉・〈菖蒲鳥〉・〈初時鳥〉・〈山時鳥〉・〈沓手鳥〉・〈山郭公〉など

ホトトギスの異称のうち「杜宇」「蜀魂」「不如帰」は、中国の伝説に基づくもので古代の蜀国の帝王だった杜宇は、ある事情で故郷を離れたが、彷徨ううちに その魂が変化してホトトギスになった。その為、ホトトギスは今も「不如帰(帰るにしかず)」と鳴いている、という。

万葉集では153首にも登場し、主に「霍公鳥」や「霍公」の漢字表記。【大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌が多い。】 古今和歌集では「山郭公」「郭公」での漢字表記が目立つ。

<以上、引用終わり>

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補注: ホトトギスと托卵について 
「ちょこっと十勝 野鳥のページ」から http://www.geocities.jp/catmintcibi/tokachi21.html より<以下引用>
カッコウの仲間(ホトトギス科・・カッコウ、ホトトギス、ジュウイチ、ツツドリ)はどの種も自分で巣を作らず他の鳥の巣にその卵を産みつけて育ててもらいます。これを托卵と言い育ての親を仮親と言います。
4種の主な托卵相手:
カッコウ…………モズ、ホオジロ、オオヨシキリ、ノビタキ、アオジ、ウグイスなど。
ホトトギス………ウグイス、ミソサザイなど。
ツツドリ…………センダイムシクイなど。
ジュウイチ………コルリ、ルリビタキ、オオルリなど。
<以上、引用終わり>

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