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書紀に同母弟とある場合、父親は違うことを示す

2016年3月7日 月曜日 晴れ(少し暖かく、春に向かってゆくような陽差し)

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小林惠子 陰謀大化改新 仕組まれた東アジアの政変 文藝春秋 1992年

悪夢のような過去世界と現実とのあまりのギャップ

「書紀」に同母弟とある場合は、父親は確実に違う

私は歴史を研究する以上、否応なく孤独であるし、孤独でなければ、歴史の真実に出合えないと思っている。 確かに、過去を知るということは、タイム・トンネルを潜って過去の見知らぬ国や人々の間をさまよう気分である。心細さを通り越して、恐怖に張り裂けそうになりながら、薄暗い町や野山をあてもなく、さまよう。家々の扉は固く閉ざされ、叩けども応答はない。 悪夢のような過去世界から現実に戻れば、見聞したことと、現実とのあまりのギャップに呆然自失する。(小林、同書、あとがき p254)

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舒明(田村)は「書紀」からみても百済宮で死に、百済の大殯(おおもがり)をしたとあるように、きわめて百済指向が強いようにみえる。・・・舒明(田村)朝は百済の武王が倭国に投影されたものであり、「書紀」が山背王朝を史上から抹消するために、創作したものと結論される。では何のために。・・・さて、タリシヒコの死の前後の推古二九年(六二一)から「書紀」を検証しよう。・・・この新羅に行った唐国の使者が「書紀」にみえる新羅使人に同行していたのか、あるいは新羅使人にことづけたのかは決め難いが、いずれにしろ新羅使人の上表文とは高祖(補注:唐の高祖李淵)の璽書(じしょ)だっとのである。なぜなら推古二九年の新羅使人は天武八年条の新羅使人と対応しているからである。・・・このことから、推古二九年条の「新羅の上表はこの時に始まるか」という意味は、唐国が新羅を通じて倭国に内政干渉をするのが、推古二九年に始まるという意味と理解されるのだ。 唐国の介入とは、タリシヒコの退位の要請だったことに、まず間違いない。(同書、p70-71)

補注: 「唐国の介入とは、タリシヒコの退位の要請」について、半島ないし列島の史書(「三国史記」や「書紀」)ではこのような唐からの内政干渉がもしあったとしてもそれを明示的に書き記すことはできないであろう。そのために、讖緯的な表現から記載の真意を読み取ったり、物事の時系列推移(つまり結果)から因果関係を読み取ることが必要と思う。一方で、たとえば干渉した側すなわち唐国の側の資料ではその干渉の内容を裏付けるような何らかの手がかりが明示的に得られる可能性が有るのではないか。(たとえば二〇世紀後半のアメリカによる沖縄への核兵器の持ち込みが、日本政府による公式コメントでは「なかった」ことにされていても、数十年後に公開されたアメリカ側の公文書で明確に実証されているように。)

「書紀」と「三国史記」の特徴は、外国の兵力によって直接、王などの為政者が殺された場合は、讖緯説的表現によって暗示にとどめることである。それだけでなく、「三国史記」の場合は三国同士の軍事的攻防は書くが、倭国からの救援や進攻の場合は極力伏せる。「書紀」の場合も同様で、三国からの救援や軍事的介入の事実はすべて暗示に止め、歴史の表面から消してしまっている。「書紀」には「白村江の戦い」の時に限らず、多くの海外出兵の事実は記しているが、倭国内に、中国を含めた東アジアの軍勢が上陸して戦った事実は極めて厳重に隠蔽しているのだ。そこで、中国の史料や「三国史記」と「書紀」を読み比べる場合、かなりの推理力を働かせなければ、どうしても史実が浮かび上がってこないのである。(小林、同書、p82)

山背の妃に蘇我氏の子女が一人もいないのはなんとしても不自然に感じられる。そこで山背と蘇我氏一族には表面には見えなくても、対立があったと考えるほかはないのである。(小林、同書、p88)

ところで、孝徳という人は不思議な人である。「孝徳即位前紀」に皇極(斉明)の同母弟とあるだけの天皇なのである。 孝徳だけでなく、天武の場合も天智の同母弟とあるだけで、父親は「天武即位前紀」では明記されていない。・・このように、「書紀」に同母弟とある場合は、父親は確実に違うということである。

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ウィキペディアによると・・・
李淵 在位期間 618年6月18日 – 626年9月4日
生年 天和元年(566年)没年 貞観9年5月6日(635年6月25日)
・・・しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となった。その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年に崩御した。
諡号
崩御後に大武皇帝と贈られたが、後に高宗により神尭皇帝に改められ(674年)、続いて玄宗により神堯大聖皇帝(749年)、さらに同じく玄宗により神堯大聖大光孝皇帝(754年)と改称された。

高祖 618–626 / 太宗 626–649 / 高宗 650–683 / 中宗 684 / 睿宗 684–690 / 中宗 (復辟) 705–710 / 殤帝 710 / 睿宗 (復辟) 710–712 / 玄宗 712–756 / 粛宗 756–762 / 代宗 762–779 / 徳宗 780–805 / 順宗 805 / 憲宗 806–820 / 穆宗 821–824 / 敬宗 825–826 / 文宗 826–840 / 武宗 840–846 / 宣宗 846–859 / 懿宗 859–873 / 僖宗 873–888 / 昭宗 888–904 / 哀帝 904–907

以上、ウィキペディアより抜粋引用

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