2016年1月22日
寺島隆吉 英語で大学が亡びるとき 「英語力=グローバル人材」というイデオロギー 明石書店 2015年
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『英語で大学が亡びるとき 「英語力=グローバル人材」というイデオロギー』寺島隆吉著の書評を http://www42.tok2.com/home/ieas/bookreview20151221.pdf のウェブサイトで見ることができる。
研究力の基礎は、国語力(母語で論理的に考える力)と数学力である。<同書評から引用>
これは私も長年にわたって教育と研究の場で重点的に指導してきたところであるので(同書はまだ手にしてはいないものの)同志ををひとり得られたような予感である。つまり、とても気強く感じている。
ただ、即戦力として使える人材を工業化社会に送り込むことを使命としている現在の大学教育の場では、往々にして軽視ないし蔑視されている視点であるのは認めざるを得ない。私も同僚から「草野球を小学生に教えるように指導すべき場面で、将来の大リーグの選手を育てようというような大それた目標で研究指導をしている」との批判を受けていたとのこと、直接言われたのではなく、間接的に聞き及んだことがある。大学教育が低俗化し、マスプロ教育が成果を挙げていないことは重々承知してはいる。しかし、たとえ同僚から冷笑的批判を受けようと、私は教育の場に臨んだら真摯に学生と向き合いたい。私は学生たちを見下したような教育をすることを潔しとはできないのである。
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マスコミに載らない海外記事さんのサイト http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-34a3.html から、<以下引用>
今読んでいる本『英語で大学が亡びるとき「英語力=グローバル人材」というイデオロギー』寺島隆吉著、素晴らしい本だと思う。こうした記事と直接つながる文章があったので、転載させていただこう。
307-308ページ
福島原発事故で明らかになったように、政府の発表も大手メディア(特にNHKを含めた大手のテレビ局)の報道も嘘に満ちていて、外国の報道を通じて初めて、私は福島原発事故における放射能汚染の深刻さを知ったからです。
かつてアジア太平洋戦争で日本が負け戦を続けているにもかかわらず当時の『朝日新聞』を初めとして大手メディアは政府の垂れ流す「勝った、勝った、日本が勝った」をそのまま報道し続けてきたのに似ています。しかし英語で情報を読んだり聞いたりできたひとにとって、日本の敗戦は疑いようのない事実でした。
ですから日本の英語教育は「読む能力」にもっと力を入れるべきだと考えています。そうすればインターネットで海外の報道を知ることができるようになった現在、英語を読む力をつけておきさえすれば、政府の発表や大手メディアの報道で国民がだまされることも、大幅に減少するでしょう。
ところがTOEICの受験結果を見るかぎり、大方の予想に反して、日本人の英語力は「聴解力」よりも「読解力」の点数が低いのです。今は学校も民間も「会話一辺倒」ですから、ますます英語の読解力と低下していくでしょうし、「英語でおこなう、英語の授業」はさらにこの傾向に拍車をかけるでしょう。情報を隠したい為政者にとってこれほど好都合なことはありません。<以上、引用終わり>
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私の以前の読書ノート:「日本人にとっての最も優雅な英語の話し方は、日本人らしく話すこと」の記事(2015年4月18日付け)も以下に再掲する。
2015年4月18日 土曜日 晴れ
中島義道 英語コンプレックス脱出 NTT出版 2004年
第一章 「英語コンプレックスとは何か」は、もともと「英語コンプレックスを探る」と題して1993年に書かれたものの復活。「英語帝国主義」に対する正面からの批判(同書、まえがき、p4)となっている。第二章以降は、英語コンプレックス状況の変化、私の英語コンプレックスの変化、英語コンプレックスの自然治癒、と続く。
以下、1993年に書かれた第一章からの引用:
この場合、日本人は欧米人のまねをしてアジア人同胞を虐待しておきながら、欧米人のアジア侵略を批判する資格はない、というべきであろうか。賢明な読者にここで考えてもらいたいことは、平均的日本人はアジア侵略に対して何ほどかの良心の呵責を感じるのに対して、平均的イギリス人はアジア侵略に対してほとんど自責の感情をもっていないということである。
イギリス人のインド支配の過酷さは人も知るとおりである。イギリスはアヘンによる中国支配というおよそかんがえうるかぎり最も卑劣な手段を講じた。それにもかかわらず、大多数のイギリス人は自分たちのアジア支配を正当だと考えている。(中島、同書、p66-67)
私が強調したいこと、それはごまかすことなく自分のうちに潜む欧米コンプレックスを直視することから出発するほかない、ということである。これはわれわれの「運命」なのである。黒人解放運動が黒い肌の色を理性的に愛すること(アガペー)から出発せねばならないように、われわれはこの運命を理性的に愛することから、すなわち、自分に与えられた運命を愛するところから出発するほかない。そして、コンプレックスはこうした理性的レベルでは解決できないことを肝に銘じつつ、さしあたりどこまでも理性的に対等の原則を貫くことに全力を投じるほかない。・・・中略・・・次のように問う人がいるとしよう。「私は現在の国際語としての英語に特別不都合を感じない。なぜ、わざわざこれに逆らってみずからの血を流しみずからの骨を砕く努力をしなければならないのか? 」 この疑問に対する答えは簡単である。それが正しいからである。言語や民族のあいだにはいかなる支配の構造もあってはならないからである。われわれは現在の英語支配の構造を変革すべきだからである。とすれば、その変革はいくら困難であってもできるのである。カントとともに言えば「きみはできる、なぜならすべきだからだ(Du kannst, denn du sollst)」(カント自身の言葉ではないが、カント倫理学の基本思想を表すものとして、有名なもの)。(中島、同書、p73-74)
アジア植民地支配の道具として使用された英語を、アジアの一国としてのわが国でいま眼の前の生徒たちに教えている行為を、何がしかの痛みとともに自覚せよ、と言っているのである。(同書、p77-78)
日本人にとっての英語の最も優雅なしゃべり方は、日本人らしくしゃべることである。(同書、p80)
英語支配の構造を覆すためにとるべき第一の対策は、英語を真の国際語として働かせるために、そこから英米文化の臭いをなるべく消し去ることである。(同書、p80)
そしてもう一つの対策は、さまざまな言語間での対等な関係を確立することである。(同書、p81)
しかし、些細なことだからと引き下がってはならないのだ。むしろ、きわめて大事なことは、「それ自体は大したことでないような、欧米に盲従する日常茶飯の自分の行動や癖を意識的に反省し、もしそこに問題があればあえて異を唱え、こだわる習慣をつけることである」。これは勇気を必要とすることである。(同書、p82)
けっして彼らの傲慢や偏見を見過ごしにせず、しかも時宜をつかんでさりげなく言えばよいのである。その静かな要求に、彼らがどのように応えるかをしっかり観察すればよいのである。
一般に、支配・被支配の構造において、支配する側の意識改革を待っていては何も進展しない。被支配の側から叫び声を発していかねばならないのだ。(同書、p82-83)
英語コンプレックスを空威張りや自己欺瞞や痩せ我慢ではなく、真の意味で克服するには、一つの道しかない。それはあらゆるコンプレックスと同様、そのコンプレックスの全貌を見通し、それを克服する手段を真剣に研究し、かつ勇気をもって具体的な行為に出ることである。(同書、p83)
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「憧れの」欧米社会の実態はこんなに悲惨なものだという報告---「ウィーン愛憎」はじつはこの系列。(中島道義 英語コンプレックス脱出 p129 NTT出版 2004年)
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