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李卓吾の童心:仮を絶ち純粋に真である本心

2016年1月17日 快晴(気温は低いが陽差しは暖かい)

溝口雄三 李卓吾 正道を歩む異端 中国の人と思想10 集英社 1985年

李卓吾の童心:仮を絶ち純粋に真であるところの最初一念の本心

李卓吾が「仮」として対抗しているのは、端的にいえば社会の既成観念、具体的には当時の朱子学的な道統観念であり、またそれにとらわれて自己のあるいは人間の真実の希求や欲求を忘却することです。それで人は、絶仮純真すなわち仮を絶ち純粋に真であるところの最初一念の本心、つまりぎりぎりやむにやまれぬ赤裸々な童心に依拠して、「真」の生、また真の生によって構築される「真」にあるべき社会関係や社会理念を自分のものにしなければならない、というのです。・・・(中略)・・・この「真」は既存の社会通念に対しては破壊的に、またあるべき未来の社会像に対しては創造的に作用することになります。このように社会関係に対して破壊的でありつつ同時に創造的に作用するというこの点が、李卓吾の「真と仮」を老荘や仏教のそれと区別します。現在の社会通念や社会関係を一時的な仮のものとする点では彼らは大ざっぱには共通するけれども、老荘や仏教が現在であれ未来であれ人間の社会関係そのものを仮のものとみなしてそれには価値を見いださないのとちがって、李卓吾の場合は否定するのはあくまで現在の「仮」の社会関係であって、あるべき未来の「真」の社会関係に対しては、むしろ希求は強いのです。(溝口、同書、p53-54)

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