ぼくは、それぞれが与えられた立場で、「ほんとうのこと」を語ろうと努力してもらいたいということに尽きる。それができない場合は、「しかたなかったんだ」という呟きを自分に対してなるべく許さずに、安易に解決せずに、「ほんとうのこと」を語れなかったことに悩んでもらいたい。それだけだ。
・・・真実を語ることは多くの場合危険なのだ。だからこそ、それにもかかわらず語ることに価値があるのだ。(中島義道 「哲学実技」のすすめーーーそして誰もいなくなった・・・ 角川oneテーマ21 2000年(キンドル版は2014年)引用は同書、Kindle版、69%)
2015年6月9日 火曜日 雨
哲学実技を再考してみる
この数ヶ月のあいだ、現実の中で生きた哲学を実践しているような日々を過ごしている。このところは、余りの不条理な難詰を浴びたために吐き気のような身体症状にも苦しみながら、人に対してはいつも通り静かに誠実に対応しようとつとめている。また、この機をうかつに逃してしまえば二度と訪れないだろう貴重な機会と受け止めて、自身の生い立ちの背景や生まれ育った家庭環境と家族について深く洞察してみている。
親しい友人に言わせると、私が幼児や中学生の頃の心の傷のような出来事まで思い出して反芻することは、「蝉がサナギの殻から抜け出して、羽が乾かないで飛びだせない状況」のようになるものだ、とのこと。だから、この時期には大事な決断や行動を差し控えないと、判断を誤るし、自らを危険にさらすことになるという。確かに深く過去を内省すればするほど、現実に対して鬱状態に落ち込んで対応不全になっているようだ。
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現実社会の不条理を前にして、誠実を実践しようとすることは非常な苦痛を伴うものだし、中島さんが明言されているように哲学することは現実社会において何の役にも立たない。それどころか、誠実を尽くし正直に述べることによって多くの損・実害を被ることはしばしばである。
わずかでも「自分は正しい」と思うことをやめること。むしろ「自分は正しくない」と無理にでも思ってみること。これは、きみの精神を鍛えるうえでたいそう重要なことだ。(中島、哲学実技、Kindle版、81%)
これは中島さんの山上の垂訓ともいえる名言である。が、これを実践することによって、現実の人との対応においては、「危機感を持っていない」とか「情熱が欠如している」とかと社会から非難されることにつながるかもしれない。
剥き出しのギロギロした情熱を示すことは、表面的であり、下品なことであると私は思っている。が、「自分は正しい」と思うことをやめようとしている人のことを、社会は「個性がない」とか「主張に乏しい」とか即断して排除しようとするかもしれない。社会はいつも「ホンモノのように見えるニセモノ」に騙されたがっているのである。
このような社会・世間とも積極的に関わりながら、そこで出会う些細なことに対しても、自分の誠実さを貫こうとするところに哲学の実技の場がある。
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