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侍の「道」のためには、ときに不忠不臣の名も甘受しなければならぬ場合がある。私もその覚悟だから、おまえも私に助力してくれ。

2021年3月18日 木曜日 曇り
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山本周五郎 樅ノ木は残った 新潮文庫 昭和38年
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「私はあの木が好きだ」と甲斐は云った、「船岡にはあの木がたくさんある。樅だけで林になっている処もある、静かな、しんとした、なにもものを云わない木だ」(新潮文庫版、上巻、p71)
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・・しかし侍の「道」のためには、ときに不忠不臣の名も甘受しなければならぬ場合がある。自分(=原田甲斐)もその覚悟だから、おまえも自分(=原田甲斐)に助力してくれ。甲斐は、繰り返して(中黒達弥に)そう云った。(上巻、p188)
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・・私は憶測や疑惑や勝手な想像で、人をみたり商量したりすることはしない、誰に限らず、なにごとによらず、私は現にあるとおりをみ、現にある事実によってその是非を判断する、もしそんな盟約があるとすれば、盟約者以外には秘してもらさぬ筈だ、たとえそれが七十郎であろうともだ。(上巻、同書、p486)
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・・けれどもそれで終わるのではない、世の中に生きてゆけば、もっと大きな苦しみや、もっと辛い、深い悲しみや、絶望を味わわなければならない。生きることにはよろこびもある。・・・(中略)・・・生きることには、たしかに多くのよろこびがある。けれども、あらゆる「よろこび」は短い、それはすぐに消え去ってしまう。それはつかのま、われわれを満足させるが、驚くほど早く消え去り、そして、必ずあとに苦しみと、悔恨を残す。
  人は「つかのまの」そして頼みがたいよろこびの代わりに、絶えまのない努力や、苦しみや悲しみを背負い、それらに絶えながら、やがて、すべてが「空しい」ということに気がつくのだ。
  ーー出家をするがいい、坊。
  と甲斐は心のなかで云った。生活や人間関係の煩わしさをすてて、信仰にうちこむがいい、仏門にも平安だけがあるとは思えないが、信仰にうちこむことができれば、おそらく、たぶん。
  甲斐の心の呟きはそこで止まった。仏門にはいり信仰にうちこむことができれば救いがある、彼はそう云うつもりであった。眠っている幼児を、心のなかで慰めようとしたのだ。誰に聞かれるわけでもないのだが、やはりそう云いきることはできなかった。彼は眉をしかめ、顔をそむけながら立ちあがった。(同書、上巻、p304)
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