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モーム アシェンデン(2)

2017年3月28日 火曜日 晴れ

モーム アシェンデン 英国情報部員のファイル 中島賢二・岡田久雄訳 岩波文庫 赤254-13 2008年

「・・私の友人は、二日間の休暇をとるとブーローニュへ出かけました。それはひとえに、自分の自尊心の受けた傷を癒したいという思いからでした。彼がそんなことにこだわるというのも変な話です。あなたも、説明がつかない話だと思われるかもしれませんね。彼は、アリックスが自分のことを間抜けと見なしていると思うと、耐えられなかったのでしょう。だから、そんな印象を彼女の頭から追い出してしまうことさえできれば、あんな女のことで二度と気を煩わしはしないと思っていたのです。オマリーのことも、イヴォンヌのことも頭に浮かびました。彼女が二人に話したかも知れませんから。自分が心の奥では軽蔑している連中に、陰で笑われていると思うと癪(しゃく)だったんです。私の友人を、見下げ果てた男だとお思いになりますか?」・・・(中略)・・・「私の友人はブーローニュから戻ると、自分がアリックスを狂ったように恋していることに気づきました。・・」「・・彼女の話の内容には、死ぬほどうんざりしていましたが、でも例の喉声を聞くと、私の友人の心臓はたちまち激しく打ちだして、ときには息が詰まりそうな思いを味わったというのです。」(モーム、同書、p349-351)

「・・いやはや、なんともおぞましいばかりの恥曝しでした。友人は惨めな気持ちでした。惨めな? いえいえ、彼はこれまでにないほど幸せだったのです。彼は溝(どぶ)の中で転げ回っていましたが、そんなところで転げ回るのが嬉しくてなりませんでした。・・」(同書、p362)

補註 この作中のX国駐在・英国大使(=作中の名前はハーバート・ウィザースプーン卿)の述懐を聴いていると、「人間の絆」のフィリップとミルドレッドの関係の相似形、すなわち、大使の友人ブラウン(=おそらくは30年前のハーバート卿本人)と、巡業サーカスの女芸人アリックスとの関係、を見出すのである。そして、作中で話題とされるイギリス外交官バイアリングと高級娼婦ローズ・オーバーンとの関係もまた、フィリップ・ミルドレッドの相似形であろう。「アシェンデン」が出版されたのが1928年であるから、モームは「人間の絆」を出版(1915年)してから十数年も経過した後でさえも、このような恋(=人間の絆)の痛手から自由になりきれているわけではなく、もう一度、この恋を語らせたかったのであろう。最高のキャリアを登ってきた英国紳士のハーバート卿・英国大使の口から、30年も後になって告白させることにも大きな意味が含まれているのであろう。

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・・だからアシェンデンはもう一度、話はもうやめにしてほしい、という気になった。素っ裸になった他人の魂を直視するなんて、恥ずかしくてたまったものではない。そもそも、人はこんな惨めな状態の自分を他人に見せる権利があるのだろうか?アシェンデンは叫び出したかった。
 「もう、おやめになってください、もう結構です。閣下はこれ以上お話になってはいけません。あとで、恥ずかしくお思いになるでしょうから。」
 しかしハーバート卿は、すでに羞恥心を捨てていた。(モーム、同書、p360)

 アシェンデンはハーバート卿のほうを見ないようにした。大使の眼から涙が溢れ、それが頬を伝っていくのが見えたからである。ハーバート卿は涙を隠そうともしなかった。アシェンデンは新たな葉巻に火を点けた。(同書、p364)

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補註 モームの叙述の視点について

「こんな惨めな状態の自分」・・ここには複雑に交差・重層する幾つかの視点がある。
(1)当時の友人ブラウン(=実は当時のハーバート卿自身)
(2)現在の功成り名遂げているハーバート卿(30年後の告白者)
(3)臨席して、その話を聴いている当事者としてのアシェンデン
(4)それをストーリーとして思い返して叙述している作家としてのアシェンデン
(5)実物の作家・モーム自身

モーム本では、(4)と(5)とはそれほど明確な落差は感じられないが、前回のこのページでも述べたように、語り手を一人称とするか三人称とするか、微妙な差異があり、(4)を(5)と分ける方がより多くの視点を得られ、より客観的な(5)の視点をも獲得できる語り口になる。逆に、たとえば、Cakes and Ale の場合には一人称で語ることにより、(4)に(5)を封じ込めることができ、物語に直接的に深く、主観的に関わっていけるという視座が獲得できるのであろう。

オースティンの語り口は、それだけで実に面白く楽しめる文学表現であるが、練達の語り手オースティンの域に達するまでの腕前の作家は少ないだろう。下手(へた)に真似すれば、ややもすると視点が曖昧になり、読者には直感的理解が難しくなるだろう。

モームの語り口は、叙述の話法に関しては単純に徹していて、非常にわかりやすい。しかし、登場人物たちに語らせることによって、複雑に重層する視点をそれぞれ上手に表現しているのである。読み取りやすく聴き取りやすい話法が生まれている。文章を書く多くの人にとっては、見習うべき表現法であると思う。

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 「・・私(=大使)が、バイアリングは正しい、と言うのはこういうわけなんです。それが五年しか続かなくても、出世の見込みがなくなっても、その結婚が破局に終わろうとも、やってみるだけの価値はあるはずです。本人はそれで満足でしょう。やるだけはやったんですから。」(モーム、同書、p366)

補註 やってみるだけの価値はあるはずです
 「人間の絆」では主人公フィリップの口を通して、この言葉を何度も聞いてきた。しかし、モームがこの英国大使のような人物の口を通して、この人生観を語るだろうことは、実は私には予測できなかったのである。モームは、敢えて、そこまで(自由意志で乗り越えるのには余りにも高く厳しいハードルを設定しているのだ!)しても、これを人々に語りたかったのだと思う。

先ほどの視座の話題を持ち出すならば、このように失敗するであろう選択を自ら選ぶか否かという岐路での選択に関して、

(1)当時の友人ブラウン(=実は当時のハーバート卿自身)ならどうしたか?
(2)現在の功成り名遂げているハーバート卿(30年後の告白者)ならどう考えるか?
(3)臨席して、その話を聴いている当事者としてのアシェンデンは?
(4)それをストーリーとして思い返して叙述している作家としてのアシェンデンは?
(5)実物の作家・モーム自身は?

(1)当時の友人ブラウン(=実は当時のハーバート卿自身)ならどうしたか?
・・一線を越えずに、「喜劇を演じ、仮面に顔を隠して生きていく」(モーム、同書、p365)人生の方を選んだ。
 対照的に、ここで話題となっているバイアリングは友人ブラウンとは別の選択をしたのである。「それは恐らく五年しか続かないだろうし、出世の見込みがなくなって、その結婚が破局に終わったであろう」ことは、ほぼ確実に予想できることであろう。ところが、「本当に、やってみるだけの価値があったかどうか? 30年後のバイアリングはそれで満足だろうか。やるだけはやったことに正の価値を置き続けられるだろうか?」ーーーこれらの問いに関しては、決して一つの答えが得られるような問いではない。

(2)現在の功成り名遂げているハーバート卿(30年後の告白者)ならどう考えるか?
・・そして、その30年前の選択を心の奥底では悔いている(少なくとも現在の自分に確信を持てていない)。 「・・私(=大使)が、バイアリングは正しい、と言うのはこういうわけなんです。それが五年しか続かなくても、出世の見込みがなくなっても、その結婚が破局に終わろうとも、やってみるだけの価値はあるはずです。本人はそれで満足でしょう。やるだけはやったんですから。(モーム、同書、p366)」という告白につながっているのである。

(3)臨席して、その話を聴いている当事者としてのアシェンデンは?
・・・・だからアシェンデンはもう一度、話はもうやめにしてほしい、という気になった。素っ裸になった他人の魂を直視するなんて、恥ずかしくてたまったものではない。そもそも、人はこんな惨めな状態の自分を他人に見せる権利があるのだろうか? アシェンデンは叫び出したかった。
 「もう、おやめになってください、もう結構です。閣下はこれ以上お話になってはいけません。あとで、恥ずかしくお思いになるでしょうから。」(モーム、同書、p360)・・つまり、アシェンデンは、この話題を聴くことも話し合うこともできれば避けたいと思っている。アシェンデン自身が当事者であれば、「このように失敗するであろう選択を自ら選ぶか否かという岐路での選択に関して」、どのような考えを持っているか、ここでは明確に述べられていない。ただ、この小説「アシェンデン」のような形になって出版されるという状況を鑑みるならば、当事者アシェンデンは、きっちりと見聞きし分かり、何年も後にも「素材(モーム、同書、p368)」として温め続けて行ったことが読み取れるのである。大使の人生観に即かず離れず。

(4)それをストーリーとして思い返して叙述している作家としてのアシェンデンは?
(5)実物の作家・モーム自身は?
この二人の区別はやや不分明である。モーム(作家としてのアシェンデン)自身が当事者であれば、「このように失敗するであろう選択を自ら選ぶか否かという岐路での選択に関して」、どのような考えを持っているか。上述してきたように、5つもの交錯・重層した視点を持っているのである。明確な一つの答えは提示されていない。ただ一つ言えるのは、この1928年時点のモームにとって、この問題は解決済みの問題ではなく、何度も問い返し、いくつもの答えを用意しながら、生きてきたし、これからも生きていくことになるだろうことを知っているのである。

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