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忠盛が国司となっていた美作で、法然の父が保延七年(1141年)に殺害された

2015年12月10日 曇り

五味文彦 西行と清盛:時代を拓いた二人 新潮選書 2011年

西行の遁世した保延6年(1140)の前後から地方では武士の争いが激しくなっていた。忠盛が国司となっていた美作(みまさか)では、浄土宗を開いた法然の父が敵の夜討ちにあい、保延七年に殺害されている。幼い法然がそのまま敵討ちを志向していったならば、美作守忠盛の家人になっていたかもしれないが、それを断念し出家してやがて比叡山に登っている。(五味、同書、p68)

これらの事件の多くは、朝廷から徴税ほかの免除特権を獲得して支配を強めようという荘園領主側の動きと、その免除特権を否定して知行国の支配を強めようとする国(国司)側の動きとが、現地で衝突したことに原因があった。こうした争いに平氏は時に荘園の側として、時に国の側として関わることにより勢力を伸ばしていったのである。(五味、同書、p68-69)

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忠盛: 清盛のお父さん。
忠盛は保延二年(1136)から美作守、天養元年(1144)に尾張守となって正四位下(しょうしいげ)となり、久安元年(1145)には播磨守となって鳥羽院の院庁の別当を務め、公卿の座に昇る目前の地位にまで昇進していた。(五味、同書、p69)

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