雑・メモ

片田友吉・片田幸次郎・片田金蔵(曾祖父)

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片田幸次郎 HHの高祖父

明治35年6月4日除籍 岡山県勝南郡為本村53番邸 改して 高取村大字為本520番地

片田友吉二男 文政8年6月28日(1825年)生まれ 戸籍編製以前につき相続年月不詳(友吉さんは明治19年以前に亡くなっている・見正寺さんの過去帳を調べればわかるはず。幸次郎さんのお兄さんの名前その他は不詳)

位牌によると・・・幸次郎妻のトミさんが安政4年9月2日に25歳の若さで安政4年9月2日に亡くなっている。安政4年は1857年、よってトミさんの生・没年は西暦1833(1834)-1857。きみさんはトミさんが亡くなった安政4年(1857年)以降に後妻として片田幸次郎さんに嫁いだのであろう。

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きみ 幸次郎妻(HHの高祖母) 天保13年5月16日(1842年)生まれ 岡山県勝北郡平村・井上繁蔵・三女 戸籍編製以前につき入籍年月不詳 明治33年2月3日午後7時死亡2月4日届出

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金蔵 幸次郎長男 慶応3年3月21日生まれ 明治35年6月4日家督相続
父幸次郎死亡により明治35年5月12日に戸主となる。6月4日届出。

とり 幸次郎四女 明治12年3月21日生まれ 明治33年2月7日 勝南郡大崎村大字中原17番邸 若林甚蔵の弟 初次郎と婚姻、除籍

かね 長男金蔵妻 慶応3年11月27日生まれ 明治29年3月30日勝南郡飯岡村大字ヶ原 瀬尾せい妹・亡直吉三女入籍 (注:瀬尾せいさんはかねさんの姉。結婚したのは金蔵・かねともに29歳のころ。当時の女性としては、遅めの結婚と思われる。あるいは金蔵さんとの結婚がかねさんにとっては再婚なのかもしれない。)

正一 幸次郎さんの孫。幸次郎さんの四女とりさんの息子。明治30年2月7日生まれ同年2月11日死亡。(HH注:四女とりさん17歳の時の子ども。父親は不詳。若林さんとの結婚は明治33年(正一さんの死後三年目)なので、若林さんの子ではない。たった四日間の生存であったが、ご先祖として供養してあげることが大切。)

志よう 孫 金蔵長女 明治30年12月18日生まれ
志ま 孫 金蔵二女 明治33年11月22日生まれ

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金蔵 幸次郎長男 慶応3年3月21日生まれ 明治35年6月4日家督相続届出。
父幸次郎死亡により明治35年5月12日に戸主となる。6月4日届出。
昭和17年3月6日午後5時本籍に於いて死亡、同居者片田志よう届出、同月7日受付。
昭和17年3月31日、片田志ようの家督相続届出ありたるにより本戸籍を抹消す。

かね 長男金蔵妻 慶応3年11月27日生まれ 明治29年3月30日勝南郡飯岡村大字吉ヶ原(きちがはら)・・(補註201221追記:飯岡村=「ゆうかそん」と訓む。私にとっては飯岡村は難読地名熟語のひとつ。「いいおかむら」と訓む地名も日本には岩手県と愛媛県にかつて存在した、とのこと。以上、201221追記HH) 瀬尾せい妹・亡直吉三女入籍
明治37年6月12日協議離婚・実家復籍・届出同日受付除籍。
このとき志ようさん7歳、志まさん4歳、幼い娘二人を残してヶ原の実家(姉の継いだ瀬尾家)に復籍。その後はどうしていたか・・・戸籍からは、明治41年1月21日、志まさん(当時7歳)が、瀬尾かねさんの籍へ入籍したこと以外はわからない。この時点で瀬尾せいさんは? なぜ姉の瀬尾せいさんの戸籍に入らないのか?・・・など不明。HHの曾祖母。

なお、現在の電話帳登録の氏名簿で調べる限り、今の美咲町には瀬尾と名乗る方は一人もいらっしゃらないようだ。瀬尾直吉さん・瀬尾せい・かね・志まさんは嫁いで柏野家、良平さんと続くので、瀬尾の苗字を継ぐ人はいなくなったのかもしれない。このあたりは良平さんに尋ねてみるとよいだろう。

HH補註(2020年12月21日に追記): 2016年の3月、故君子叔母の為本の家の片付けを私たち夫婦二人で行った。この時に、味野(倉敷市児島味野)から良平さんと良平さんの二男さんが手伝いに来て下さり、その折りに良平さんがかねさん(=良平さんの祖母=HHの曾祖母)の晩年の面倒をみてくださったお話しを伺うことができた。かねさんのお墓も(一度は改葬されたものの)大切にされているとのこと。要、お参り。(以上、2020年12月21日に追記)

HH補註(2020年12月21日に追記) 勝南郡飯岡村大字吉ヶ原(きちがはら): 飯岡村=「ゆうかそん」と訓む。飯岡村(ゆうかそん)は私にとっては難読地名熟語のひとつ。「いいおかむら」と訓む地名も日本には岩手県と愛媛県にかつて存在した。以下のページは、5年前に書いたものだが、案の定、今回も飯岡村を「ゆうかそん」と訓むことを忘れてしまっていた。 https://quercus-mikasa.com/archives/2787 ほかにも、https://quercus-mikasa.com/archives/2792 日付けをみると奇しくも5年前に取ったメモ。しかし、実は奇しくも何ともなくて、今回公開の過去帳は5年後に公開するつもりでその頃に転記し解説を加えたものであった。 <以上、201221追記HH>

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岡山県勝北郡平村(たいらむら)・井上繁蔵さんと三女きみさん(HH高祖母)について: 三女のきみさんが天保13年(1842年)5月16日生まれというのが正しいとすれば、井上繁蔵さんは1800年前後ごろの生まれであろう。きみさん(1842-1900)が幸次郎さんのところに嫁いできた時期は、先妻のトミさんがなくなった安政4年(1857)以降の10年の間であるが、詳細は不明。位牌によると、きみさんがなくなったのが明治33年(1900)旧正月五日(新暦では2月2日)、69歳とある。このとき数え年69歳ということは、1832年の生まれということかもしれない。しかし、69歳没が正しく天保13年(1842)生まれが間違いだとすると以下のように非常な高齢出産となり、当時の医療状況その他からいって無理があるだろう。やはり、戸籍記載の天保13年(1842)生まれが正しく、位牌の69歳というのが間違い(本当は59歳)と考える方が自然であろう。

a.位牌の69歳没説では・・・慶応3年(1867)に長男の金蔵さんが生まれている。36歳で長男出産では高齢である。しかも四女のとりさんが明治12年(1879)に生まれているので、このとききみさんは48歳という非常に高齢での出産である。
b.きみさんの生まれたのが天保13年5月16日(1842年)の戸籍記載の方が正しいと考えるのが自然であろう。これならば、長男の金蔵さんを25歳で、最後の子供の四女のとりさんを37歳で出産、この間に長女・二女・三女の三人を出産したと考えてもなんら問題ない。

補註201221追記HH: きみさんが亡くなったのが明治33年、その夫の幸次郎さんが亡くなったのが明治35年、夫妻の位牌を作ったのが明治35年に幸次郎さんが亡くなってからしばらくのこととすると、きみさんが亡くなってから2年ほどしか経っておらず、息子の金蔵さんとしては、実の母が亡くなったときの年齢を10歳も間違うというのは、やや迂闊なことと現在の私には思われる。が、当時の平均寿命は男女ともに40歳前後であり、59歳であろうが69歳であろうが、母は「非常に高齢で亡くなった」という感覚があり、位牌もそのノリで作成されたのであろう(と今の私は推察している)。以上、201221追記HH。

ところで、このとりさんの名前は、末っ子の予定で、つまり最後のトリという意味かもしれない。スエと似たような発想? 明治の10年ごろ、子供を七人も八人も産むという、次の次の世代(仙太郎・志ようさん夫婦)のような発想はなかったのである。とり【取(り)】《名》寄席(よせ)で最後に出演する人。真打(しんうち)。それとも、小鳥のように可愛い子という意味で付けた可能性もないではない。(WEBで調べると、現在でもコトリ・サトリなどという名前は流行っているようだ。)当時の流行を知らないとわからない。

きみさんの実家の岡山県勝北郡平(たいら)村について: 井上繁蔵さんが住んでいた平(たいら)村は植月村となったあとすぐに勝間田村に編入、その後勝央町になっている。場所は、勝間田駅の北、中国自動車道の北すぐの辺り。平(たいら)は平家との関連がある地名かもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/植月村より<以下引用>
1889年6月1日 – 町村制施行に伴い、勝北郡植月北村、植月中村、植月東村、平村が合併し、植月村となる。大字植月中に役場を置く。
1900年4月1日 – 勝北郡が勝南郡と合併し、勝田郡となる。
1901年4月1日 – 大字平が勝田郡勝間田村に編入される。
1954年3月31日 – 勝田郡勝間田町、古吉野村、高取村および吉野村の内、大字豊久田の杉原地区以外と合併、勝央町となる。

地名の読み方:
植月北(うえつききた)
植月中(うえつきなか)
植月東(うえつきひがし)
太平台(たいへいだい)
平(たいら)

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