2020年12月13日 日曜日 午後は晴れ
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今井宏平 トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで 中公新書2415 2017年
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ケマルはイスラームを後進性の象徴とし、徹底した政教分離を前提とした「近代化/文明化」を志向した。こうして、西洋化とほぼ同義語である「近代化/文明化」は、トルコ共和国の政治理念となるのである。・・この理念を達成するために、ケマルが提示したのは、1931年5月10日の第五回共和人民党大会で承認された六本の矢である。①共和主義、②民族主義、③人民主義、④国家資本主義、⑤世俗主義、⑥革命主義からなる、この六本の矢は共和人民党の党旗にも描かれている。 この六本の矢は・・「1924年憲法」の第二条としても条文化された。いわく「トルコ国家は、共和主義、民族主義、人民主義、国家資本主義、世俗主義、革命主義である。国語はトルコ語である。首都はアンカラである」。六本の矢は「ケマリズム」の根幹をなすものであるが、一方で・・「固定的な教条というより、むしろ柔軟で可変的な枠組み」であった。(今井、同書、p26-27)
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補註: ウィキペディアによると・・・
ケマル・アタテュルクは死に至るまで一党独裁制のもとで強力な大統領として君臨したが、彼自身は一党独裁制の限界を理解しており、将来的に多党制へと軟着陸することを望んでいたとされる。また、彼の死後には次節で述べるようにケマル・アタテュルクの神格化が進むが、生前の彼は個人崇拝を嫌っていたという。ケマル・アタテュルクの死後、大統領に就任したイスメト・イノニュは強引さとカリスマ性こそアタテュルクに劣るものの、第二次世界大戦を終戦直前まで中立を保ちトルコを戦火に巻き込まずに乗り切り、その手腕と功績は高く評価されている。しかし国内の改革を並行して推し進めることは叶わず、内政面の改革と再発展は大戦後まで持ち越される。(以上、ウィキペディアより引用終わり)
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・・本書を俯瞰してわかるように、トルコ共和国の歩みは、新たな国家建設の指針であった六本の矢との対話であった。・・2015年の再選挙で圧勝した公正発展党、そしてエルドアン大統領が2023年も権力の中枢に位置している可能性は高いだろう。こうした状況の中で、100周年(補註:1923年の共和国建国から100年)に向けて六本の矢が最終的にどのような変化を見せるかに注目が集まる。
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2016年の軍部によるクーデタ未遂:
2016年7月15日夜、エルドアン大統領および公正発展党に不満を抱く軍部の一部のグループが三六年ぶりとなる武力によるクーデタを決行した。・・エルドアンはその後、マルマリスからイスタンブルに移動するが、移動後にマルマリスのホテルが空爆されるなど、間一髪の状況であった。また、国会議事堂も空爆され、大きく損傷した。結果的にクーデタは失敗、翌日には多くの将校が拘束された。・・トルコでは1960年と1980年に軍部によるクーデタ、そして1962年と1963年にはアイデミルによるクーデタ未遂が起きているが、いずれもクーデタによる死傷者は多くなかった。それに対し、2016年のクーデタ未遂では軍人と市民合わせて300人前後が死傷する、非常に暴力的なものとなった。
この未遂に終わったクーデタ事件の首謀者として、エルドアン大統領およびユルドゥム首相が名指しで批判しているのが、(アメリカに滞在している)ギュレン師である。・・2015年には、公正発展党はギュレン運動をテロ組織と断定していた。・・・(中略)・・・トルコ政治においては、多くの時代、軍部が文民政府に対して優位な立場を確立していた。しかし、軍部の政府転覆計画が発覚して以降、次第に軍部は影響力を弱め、ここに至り、政軍関係で文民政府が優位な立場を確固たるものにしたと断言できるだろう。(今井、同書、p294-295)
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補註: ヨーロッパ、ロシア、イスラエル/アメリカ、イランなど中東諸国、これら強国に囲まれた十字路に位置するトルコ共和国の舵取りは極めて難しい。
人口は8200万人、イスタンブル市域の人口は1400万人。(ウィキペディアより)
クルド人、シリアからの移民(難民)、など民族に関する問題も多く抱え、このところテロ事件も多発している。2023年が建国100年の節目の年ということで注目していたい。
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