culture & history

一六世紀、コサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となった。

2023年8月14日 月曜日 曇り時々雨(時に強く降る)

午前中、30度台の猛暑の中で畑仕事。午後〜夕方は強い雨のため事務仕事など。

**

黒川祐次 物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 中公新書1655 2002年

コサックの生い立ち

 一五世紀頃からウクライナやロシアの南部のステップ地帯に住みついた者たちが、出自を問わない自治的な武装集団を作り上げた。「コサック」(ウクライナ語ではコザーク、ロシア語ではカザーク)とはその集団や構成員のことである。

 一三世紀中頃のキエフ・ルーシ解体の後、南のステップ地帯は荒れ果て、人口が希薄になっていった。強大を誇り、ステップを支配していたキプチャク汗国も一四世紀末頃より衰退していき、一五世紀末〜一六世紀初頭には解体して、クリミア汗国などいくつかの汗国に分裂した。またそれらの汗国に十分服属しないノガイ・タタールなどの遊牧民がステップ地帯に跳梁し、ルーシ人の町や村を襲って奴隷狩りを行うようになって、この地帯はますます無人の地となっていった。たとえば一四五〇〜一五八六年に八六回のタタールの襲撃があったと記録に残されている。

 ところが、ウクライナと呼ばれるようになるこのフロンティアは、危険ではあるが、それ以上に祐で、魅力のある土地でもあった。・・・(中略)・・・

 危険を顧みず、自由と豊かさのために居残った者たちは、タタールの奴隷狩りに備えて自衛する必要が生じた。こうして一六世紀はじめまでに彼らは武装し、組織を作っていった。彼らは武力を身につけると、今度はタタールを襲うようにもなった。タタールの家畜を盗み、トルコ人やアルメニア人の隊商を襲った。またクリミア汗国やドナウ河口地帯のオスマン・トルコ帝国内の町や村を襲った。タタールがしてきたことを学んだわけである。彼らがタタールと異なっていた点は、正教の擁護者を任じ、クリミア汗国で奴隷にされていた正教徒のルーシ人を解放することにも熱心だったことである。そしてこうした者たちが「コサック」と呼ばれるようになった。コサックという言葉は、トルコ語で「分捕り品で暮らす人」あるいは「自由の民」を意味し、以前からポロヴェツ人の間で使われていた。もともとは遊牧民族のタタールに対して使われたが、後に同じようなことをするスラヴ系の人たちに対しても使われるようになったものである。(黒川、同書、p85〜87)

 

 ・・さて一六世紀になると「ウクライナ」ははじめて特定の地を指すようになる。コサックの台頭とともに「ウクライナ」はドニエプル川両岸に広がるコサック地帯を指すようになった。・・そしてコサックの下では「ウクライナ」は祖国という意味を込めた政治的、詩的な言葉となり、コサックの指導者の宣言や文書にはそのような意味で使われる「ウクライナ」が繰り返し出てくる。(黒川、同書、p83)

**

*****

*********************************

RELATED POST