culture & history

半島と列島の古代史では、国という観念を捨てて、地域名と考えると良い

2016年3月1日 火曜日 雪ときおり激しい吹雪

小林惠子 二つの顔の大王 倭国・謎の継体王朝と韓三国の英雄たち 文春文庫 1995年(オリジナルの単行本は1991年文藝春秋)

大陸にある遊牧民にとっては、気候が温和で、しかも水の豊かな「東の日の登る扶桑国」は、いかにも、魅力ある新開地ではなかったか。・・しかし、隋・唐帝国が成立するまでは、北方騎馬民族は西はヨーロッパから、東は日本まで自由に往来していたのだ。・・中国には、隋・唐以後も宋や明など、この後も、王朝は存在した。しかし、日本を侵略してきたのは、騎馬遊牧民の後裔である元だけだった。 この事実は、いかに騎馬遊牧民族が本質的に、よくいえばフロンティア・スピリットをもってさまよう体質を持っているかを示す例であろう。 アメリカに行ったヨーロッパ人が少人数で簡単にアステカ王国を滅ぼしたように、四世紀から七世紀前後までは、中央アジアと倭国及び新羅の文明の格差が大きかったために、少人数の人々が渡来して、現在我々が思う以上に簡単に為政者となり得たと考えられる。(小林、同書、p107)

当時は、倭王を含めた三国の王達は、基本的にどこの王であることにも固執せず、我こそは東アジアの覇者たらんと、しのぎを削ったのが、此の時代であった。そしてそのありようも高句麗・百済・新羅・加羅を四つの国とは考えないで、国という観念を一度捨てて、各地方の地名と考えた方が真実に近いのではないだろうか。もちろん、それは倭国も含めての話であるが、国境が確立して千年以上の歳月が経つと、たとえ、観念ではわかっていても、感覚的に理解しにくいのは当然かもしれない。 「北史」(列伝八二)の百済条には、百済には新羅や高句麗、倭人達や中国人等が雑多に住んでおり、飲食や衣服は高句麗とほぼ同じとあるように、今、我々が考えるように、三国及び倭国が、厳密に分かれて存在していたわけではないのだ。 このような歴史観をもって、これから、欽明朝以下の時代を理解しなければならない。(小林、同書、p113)

しかし、徳川三百年の鎖国の後、わずか百余年前に開国した現代に生きている我々には一千三百年前に、日本が為政者の流入という、外国の影響を圧倒的に受けながら統一国家として誕生したという観念はなかなか身につかないのが当然かもしれない。(小林惠子 倭王たちの七世紀 天皇制初発と謎の倭王 現代思潮社 1991年、p3)

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