culture & history

中里貝塚

2019年2月27日 水曜日 快晴(春のような暖かい陽射し)

中里貝塚: 以下はウィキペディアより引用: https://ja.wikipedia.org/wiki/中里貝塚

江戸時代から貝殻が大量に出土する「かきがら山」として知られ、その広がりは、南北1キロメートルほどの規模になるものと推定される。1886年明治19年)に白井光太郎によって「中里村介塚」として初めて当時の学会に報告された。日本で最初に発掘された大森貝塚発掘から9年後のことである。和島誠一によって1958年昭和33年)調査が行われ、貝層の中から少ない量ではあるが、縄文時代中期の土器片が出土した。このことからやっと縄文時代の貝塚であることが分かった。1996年平成8年)には旧国鉄跡地の公園整備にかかわり発掘調査がなされた。1999年(平成11年)にもマンション建設に先立つ調査が、1996年の調査地点の西120メートルのところで行われた。

貝塚は奥東京湾西部の海岸線に沿っていることが明らかになり、ムラの一角にできた貝塚ではなく、集落から離れた浜にできた貝塚であり、周辺に居住する人々が協業して貝の加工を行っていたとみられている。その規模は幅約40メートル、長さ1キロメートルにも及ぶという巨大な貝塚である。カキ(マガキ)やハマグリが大半を占め、春先のカキと初夏のハマグリが交互に貝層を形成し、高さ約4.5メートルにもおよんで堆積している。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

補註 先日のブログで、私が東京に出て来て北区中里に長いこと住んでいたことを書いた。今日、「縄文の歴史」を読んでいて、中里貝塚のことを知り、ひょっとしてこの「中里」は私の住んでいた中里と無関係ではないかもしれないと思って、ウィキペディアで調べてみた。すると、まさに私の住んでいた中里であった。ただし、私の住んでいた中里はJR駒込駅から徒歩数分の至近であったが、この中里貝塚は京浜東北線の上中里の近くのようで、その辺りは私には土地勘がなかったかもしれない。大学生の頃は自宅周辺をよく走っていたものだが、山手線沿いを田端の丘の方に登って日暮里・谷中の方に走るのがいつものコースだった。だから山手線下のガードをくぐって北側の上中里方面に進むことは滅多になかったのである。さて、この中里貝塚は、「1996年平成8年)には旧国鉄跡地の公園整備にかかわり発掘調査がなされた。1999年(平成11年)にもマンション建設に先立つ調査が、1996年の調査地点の西120メートルのところで行われた。(ウィキペディア)」と書かれているので、私が北区中里ついで滝野川に住んでいた1975〜1984?〜1989年頃よりもずっと後になって発掘が進められたようだ。だから、今日に至るまで私の頭の中に何もインプットされなかったのだろう。

補註 1975年といえば日本は高度成長期の元気いっぱいの時期であるが、私の住環境の方は厳しいものであった。木造のアパートの二階に住んでいた線路沿い。山手線の貨物列車が深夜に轟轟と地響きをたてる音で何度も目を覚ました。アイキャッチ画像には、志ん生さんの「なめくじ艦隊」の挿絵のイラストを選んでみた。厳しかった私の貧乏苦学時代にちなんでみた。

ところで、この中里地区、大昔には「集落から離れた浜にできた貝塚であり、周辺に居住する人々が協業して貝の加工を行っていたとみられている」ということで、関東でももっとも繁華な元気のよい暮らしが展開されていたようだ。縄文海進期で、あの辺りは牡蠣や蛤の豊富な浜辺であったのだ。その太古の昔に思いを馳せると、貧しかった私の学生時代の思い出も少し潤色されたような慰めがある。

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