2016年11月22日 火曜日 曇りときどき雪
鈴木修次 杜甫 人と思想57 清水書院 1980年
鈴木修次 唐詩 その伝達の場 NHKブックス267 1976年
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「無家別」の詩
原文は http://www.chinesewords.org/poetry/10554-606.html より引用
無家別 杜甫
寂寞天寶后,園廬但蒿藜。我里百余家,世亂各東西。
存者無消息,死者為塵泥。賤子因陣敗,歸來尋舊蹊。
久行見空巷,日瘦氣慘凄,但對狐與貍,豎毛怒我啼。
四鄰何所有,一二老寡妻。宿鳥戀本枝,安辭且窮棲。
方春獨荷鋤,日暮還灌畦。縣吏知我至,召令習鼓鞞。
雖從本州役,內顧無所攜。近行止一身,遠去終轉迷。
家鄉既蕩盡,遠近理亦齊。永痛長病母,五年委溝溪。
生我不得力,終身兩酸嘶。人生無家別,何以為蒸黎。
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久行見空巷,日瘦氣慘凄,但對狐與貍,豎毛怒我啼。
久しぶりに行きて 空巷(くうこう)を見れば
日は瘦せて 氣 慘凄(さんせい)たり
但だ 對(むか)うは 狐と貍(たぬき)
毛を豎(た)て 我に怒りて啼く
(訓み下しは鈴木修次、同書、p139)
永痛長病母,五年委溝溪。
生我不得力,終身兩酸嘶。
ただわたしの心を苦しめるのは、永患いの母を死なせて、墓も作らずに五年もほってあるということだ。わたしを生んでくださった母さまは、わたしを力とたのむこともできず、二人はお互いに、生涯つらい思いに泣くばかりだった。(鈴木訳)
このようにうたい続けて杜甫は、突如次の二句を置き、この「無家別」の詩を結ぶ。
人生 家無きの別れ
何を以てか 蒸黎(じょうれい)と為さん
人生無家別,何以為蒸黎。
人と生まれて、分かれるべき家族すら持たずに死別の別れをさせる、こんなことでどうして人民に対する政治があるといえるのか。この最後の二句は、作中の男の嘆きであると同時に、作者自身の慨嘆でもある。「蒸」「黎」ともに衆の意、「蒸黎(じょうれい)」とは、民衆、人民である。
この最後のことばは、まことにきびしい。それはもはや、体制にある者の発言ではない。現実の政道のあり方に対しての、本質的な懐疑であり、抵抗ですらある。劇的構成をもって構成された「三吏三別」は、あとのことばを許さないこの「何を以てか蒸黎と為さん」の一句をもって、ここに全作品をしめくくったのであった。・・「三吏」「三別」それぞれに、ひとつずつ作品がすすむとともに、しだいに深刻な事態が描き出され、はじめは体制の側に立っていた詩人の目が、しだいに体制から離れ、ついに最後には、体制への批判者としての目をすえるにいたっている。(鈴木修次、杜甫 人と思想57、p140-141)
杜甫にして見れば、このさい特に体制に抵抗しようとするまでの意識もなかったかも知れない。司功参軍事という職に忠実であろうとして、当然心をくばらなければならない民衆対策のために、民衆に正確な報道を与えようという意図で、すすんでこれらの詩の作製にかかったものかと思われるが、詩人としてのすぐれた感受性が、作品の上での妥協を許さなかったがために、その叙述は、体制社会に職を奉ずる者としては不適当な方向の言辞にまで及んでしまった。・・・(中略)・・・ まさにこれらの詩は、・・「詩史」、詩による現代史である。そのこと自体、注目すべき大胆さであり、特異性をそなえているが、しかしこの作品の発表は、結局のところ、役人である杜甫の首をくくってしまった。・・・(中略)・・・ 杜甫が司功参軍事をやめたのは、実は罷免されたのであった。その原因をなしたものは、「三吏三別」の舌禍であったと見られる。(鈴木修次、杜甫、p142-143)
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2016年11月29日 火曜日 依然として雪降り
宇野直人・江原正士 杜甫 偉大なる憂鬱 平凡社 2009年
杜甫の「無家の別れ」
「・・家族もなく、故郷ともこうしてお別れ。このような者がどうして国民と言えるだろうか」。ちょっと意味深長な結びです。見方によってはこういう者を作り出した朝廷への批判ととれなくもありませんし、或いは単なる虚無感ともとれます。(宇野、同書、p253)
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2016年12月1日 木曜日 雨
たえず仕官を望み続けてきた杜甫が、かりに意に満たない地方官であったにしても、それをやめるというのは、よほどの事が裏面にあったからだと考えねばなるまい。杜甫は、華州司功参軍をやめたあと、ついには五年続いた官僚生活にも訣別し、以後、五十九歳の死に至るまで、放浪の詩人として旅を続けるのである。
・・「立秋後題」(立秋の後にしるす)と題する五言古詩において、その終わりに、
官を罷(や)められしは 亦 人に由る
何事ぞ 形役(けいえき)に拘(こう)せられん
といっていることである。もし自らの意志で辞職をしたなら「辞官」というのがふつうであるが、ここではとくに罷官ということばが用いられている。罷官とは、罷免であり、免官である。・・・(中略)・・・ 杜甫が司功参軍をやめたのは、実は罷免されたのであった。その原因になったのは、「三吏三別」の筆禍、あるいは舌禍ではなかったか。・・・「無家別」の最後にしめされたような、体制に対する厳しい批判の姿勢、読みようによっては、体制への反抗と受けとめられかねないその発言は、やはり許される限界を超えていたのではなかったか。以後杜甫は、なまなましい歴史的事件を題材にして、リアルな社会詩をつくることをやめてしまったのも、その想像を裏づける。
「三吏三別」は、その作品が特異であったばかりでなく、杜甫自身の人生においても、予想外の結果を招いた特異な詩であった。杜甫のきまじめさが、自身の人生を挫折させ、杜甫自身に思いもかけぬ不幸をもたらしたのであるといえる。一方また、「三吏三別」の詩は、作詩者を免官にする必要を感じたほど、報道の文学として一般に浸透し、それなりの報道の成果を収めたのであったと考えることができるのである。ただし、こうした事実を民衆に報ずるという報道文学としての詩は、杜甫を最初にするとともに、唐代においては杜甫を最後とし、以後、それと同様な報道詩をあえて作る詩人が存在しなかった。(鈴木修次、 唐詩 その伝達の場、p235-236)
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