中島義道 異文化夫婦 角川文庫 平成25年(オリジナルの単行本は2009年11月に角川書店より「ウィーン家族」として刊行。文庫版は改題されたもの)
2015年4月15日 水曜日 雨
お昼ごろから本格的に雨が降り出した。北国でも一雨ごとに暖かくなってゆくのではと期待される暖かい雨の日があるものだが、今日の雨はそんな予感。ただし、朝から一歩も屋外に出ていないので、マチガイかもしれない。
中島さんの「異文化夫婦」の主人公は哲学者・康司(やすじとよむのだろうか)とその妻・多喜子、すなわち形式的には私小説である。が、私にとっては、ジョージ・オーウェルのパリロンドンやカタローニア賛歌などのようなドキュメンタリーとして受け止められる。
こういうふうに事が進んでいいものだろうか? 全身の力がふうっと消えていく。こういうときだ。世界のなにもかもが意味を削ぎ落としてゆくのは。生きる意味などないということがこの上なく鮮明になるのは。(中島、同書、p46)
ちょうど母が父に対して要求したように、どんなに心から謝っても、どんなに深く誓っても、「心が籠もっていない!」といって康司を断罪するに違いない。彼女は、丁度母のように、いまや夫を追究すること自身に生き甲斐さえ見いだしたのだ。(同書、p65) ああ、これ以上多喜子の手に乗ると危険だなあ。彼女は知らないうちに、母と同じように、夫の俺を憎み通すことに生きがいを感じ始めている。そこに、生活の充実を覚え始めている。俺を悪魔に仕立て上げながら、気がついたら自分も悪魔に変身している。(同書、p147)
あのころは多喜子の明るく天真爛漫な態度すべてが好ましかった。だが、いつからであろうか、そこに硬い芯のようなものを探り当てて康司は困惑した。丁度クリスチャンの姉がそうであるように、それは一見柔和に見えてきわめて頑強であり、しばしば純粋なエゴイズムと区別がつかなくなる。しかも、それは疑いなく「よいこと」であるから、それと格闘することが果てしなく虚しく、くたびれ果てる、そういった硬さであった。(同書、p90)
もともと多喜子のうちに潜んでいる異様に硬いものが、クリスチャンになることによってますます肥大していくであろう。康司は陰鬱な気持ちでそう予感した。(同書、p128)
「僕も一時は自分を変えようとしたけれど、出来ないという叫び声がからだ中に響き渡るんだ。多喜子と違って、僕は救われなくてもいい。妻子から捨てられてもいい。ただ、自分に誠実でありたい。といって、自分の本当の気持ちがまだわからない。わからないから、わかりたいんだ」(同書、p114)
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共依存の悪循環:
異文化夫婦というタイトルがどうも私にはしっくりこないのだが、康司と多喜子の夫婦はいわゆる共依存の関係である。「共依存」という言葉は最近もどこかで見たことがあるが・・・と内省してみると、まさに中島さんのどれか(たとえば反<絆>論)で1ヶ月ほど前に読んだのであった。
康司は息子博司の病気の時などには非常にかいがいしく病院に連れて行くし、自分では見飽きている定番オペレッタなどのチケットを妻子のためだけに苦労して手に入れる。妻の多喜子は生活全般を全面的に夫に依存しており、夫が自らの仕事や趣味を大きく犠牲にして、心身共にまたなかんずく時間を捧げて妻子に奉仕することを当然のように求める。愛の証を常に過重に求めつづけている。康司は妻を愛すことができないと自分を責め、多喜子は夫が十分に妻子を愛していないと康司を責める。が、ますます二人とも硬化して相手を傷つけることとなる。相手が自分を愛することが出来ない自分にしてみせる。互いに相手をそのままで認めそのままで静かにしておいてあげることが出来ない。どちらかというと妻が夫をそっとしてあげられないのが主体だ。が、夫の康司も家族のごたごたで仕事も手につかず、ホテルでの別居ぐらしへと追い出されてもそこから妻にファックスを送ったり電話をかけたりと、妻と没交渉ではいられない。ますます自体は悪化し、修復は不可能に思われる。このような状況の夫婦は異文化という面よりは、共依存が悪循環で回り出した面が絶大な重みを示す夫婦関係であろう。
「そんな敏子に康司は、今回のウィーンでの家族崩壊について細かく知らせた。それも復讐である。そこに、父と母の関係と同じ構造が写し取られていることを知ってもらいたいのだ。(中島、同書、p164)」ーーー康司と敏子(康司の母)との関係もまた、共依存関係である。しかも悪循環でサイクルを描いている。このサイクルが康司と多喜子との共依存の悪循環へと進んでゆく原因となっているのである。
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二世代半にわたる不幸の連鎖:
康司の父と母、そして康司と多喜子、重ね絵のような二世代にわたる不幸な夫婦の連鎖である。そして康司の息子・博司の現在の不幸も、三世代目へと続く将来の結婚生活の不幸を予感させる。どこでこの不幸の連鎖の輪廻を断ち切ることが出来るのか。
人は変わろうとしない方が良いし、変わることはできない、と私は思う。その考えに基盤をおいて、適切な結婚相手を選ぶことが大切だろう。だが、それは現実に可能なのか?
「あのころは多喜子の明るく天真爛漫な態度すべてが好ましかった。だが、いつからであろうか、そこに硬い芯のようなものを探り当てて康司は困惑した。(同書、p90)」ーーー結婚したあとで徐々に多喜子が変わったわけではないと私は思う。また、康司が結婚生活によって変わったわけでもないだろう。ただ、出会って恋をしていた「あのころ」は、お互いに相手の態度すべてが好ましく思えた、それもまた真実であろう。康司(=中島さん)ほどの内省的自己批判能力の高い教養人でも、適切な人を見抜いて結婚相手として選ぶことは極めて難しいことだ。むしろ幼少年期からの家族の不幸を背負ったり引きずったりしている人は、結婚相手を選ぶときにも、その不幸のバイアスを背負ってしまって、結婚することによってなお一層自らを不幸にするような相手に(アリが蟻地獄のすり鉢の中に自ら足を踏み入れ、這い上がろうと藻掻いてもますます落ちてゆくように)引き寄せられるようにして、彼・彼女を選んでしまうのだ。まさに、最も選んではならないその彼・彼女を。
幸せな幼少年時代を送った子供たちが、幸せな大人となり、自らを幸福にしてくれる適切な結婚相手を選ぶことができる。そうして彼らが、幸せな結婚生活を送り、幸せな子どもを産み育てることができる、という図式を思い描いてみる。すると、自らの子どもを大切に育てて幸せな幼少年時代を送らせてあげるように親が(学校や地域の助けを借りながら)努め、そして達成することが、続いてきた不幸の連鎖を断ち切る要諦であることがわかる。
だが、すでにして不幸な幼少年時代を送ってしまった若者や大人は、どうしたらよいのか。彼らは往々にしてさらに不幸な選択を重ねてしまうのだ。また、自らの子どもを不幸な子どもに育ててしまいがちなのだ。
この課題はいずれ深く考えてみたい。
が、この中島さんの著書の内と外にも答えの一つが示されていると思う。
すなわち、「自分を変えることは出来ないこと」それを肯定すること。「誠実を貫くこと」。「といっても、自分の本当の気持ちがまだわからない。わからないから、わかりたいんだ」(同書、p114)ーーーだから、たとえば中島さんの場合であれば、こうして書くこと、書きながら考えること、それが一つの答えだと思う。それがどんなに苦しいことであっても。また、多くの他者をさらに不幸にしてしまう結果をもたらすことになっても。
自分自身を選ぶこと、それは自分自身の不幸の「かたち」を選ぶことである。・・・(中略)・・・自分自身とは何か、それがどこかにころがっているわけではない。「そのままのあなたでいいの」という甘いささやきが表すような安易なものでもない。
それは、各人が生涯をかけて見いだすものだ。しかも、それはあなたの過去の体験のうちからしか、とりわけあなたが「現におこなったこと」のうちからしか姿を現さない。とくに、思い出すだけでも脂汗が出るようなこと、こころの歴史から消してしまいたいようなこと、それらを正面から見すえるのでない限り、現出しない。(パウロの棘のように)あなたを突き刺すあなた固有の真実を、覆いを取り払って正面から見すえない限り、見えてこない。(中島義道 不幸論 PHP新書 2002年 より引用再掲。ただし、最後の文章の文末を一部改変* 別紙 自分自身の不幸のかたちを選ぶ 脚注参照)。
以前に引用した不生庵さんのブログから以下に再掲する。私の以前の記事 自分自身の不幸のかたちを選ぶ(2) も参照下さい。
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中島さんの『ひとを愛することができない』に対する不生庵さんのコメント(誰も愛さなかった男と女)から以下に引用紹介する:
「著者は勘違いしているのである。父親は生まれつき冷淡で無感動な人間なのではない。彼は繊細で傷つきやすい性格だからこそ、他者に依存しない、周囲から影響を受けない生き方を手探りで探してきたのだ。 彼が一家の主として水準以上の努力を続けながら、妻に憎まれ、息子にも愛されなかったのは、その自己充足型の生き方が内面の強さから生まれたのではなく、自己の弱さを守るための自己防衛欲求から来ていたからだろう。」不生庵さんのkazenokoのブログ(http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/love.html)より引用。
「著者は、自己愛を乗り越えて他者を愛することの出来ない自分を、しきりに責めているが、人間は大抵そんなものではないだろうか。特に、研究者や学者は内面の静謐を必要としているから、人を愛することで内面に無用な波乱を起こしたくないのだ。だから、愛を手に入れても、直ぐにそれを負担に感じ始める。著者の父親にしても、内面を静かに保つために家族との関係を平淡なものにしておきたかったのである。 愛には、エゴに起因する狭小な愛と、存在するものすべてに対する博大な愛がある。小さな愛に執着すれば、大きな愛が失われる。著者が親や姉妹、妻や息子から愛されたりすると、苦しくなったり疲労したりするのは、それらの愛が全体愛と折り合うことのないエゴの愛だったからではないか。」不生庵さんのkazenokoのブログ(http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/love.html)より引用。
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