2016年11月21日 月曜日 晴れ
一海知義 漢詩一日一首 平凡社 1976年 p402
陸游(1125-1209)読書
帰老寧無五畝園 読書本意在元元 燈前目力雖非昔 猶課蝿頭二萬言
「帰老寧無五畝園」 帰老せば 寧(なん)ぞ五畝(ほ)の園なからん
「帰老」とは、役人をやめて郷里に隠退することである。「五畝」の畝は、面積の単位であり、一畝は今の百坪あまりにあたるという。
役人をやめて、政治の舞台から隠退しても、わが郷里には、五百坪あまりの畑がないわけではない。けっこう生活はやっていけるのだ。
「読書本意在元元」 読書の本意は元元(げんげん)に在り
昨年、私はたしかに退官した。しかし五畝の畑のある故郷へは帰らず、ここ成都の地で読書にはげんでいる。私が読書をしている本来の意味は、元元、すなわち人民につくすことにあるのだ。
「燈前目力雖非昔」 燈前の目力(もくりょく) 昔に非ずと雖(いえど)も
ともしびを前にして、視力は昔のままというわけにはゆかぬけれども、
「猶課蝿頭二萬言」 猶お課す 蝿頭(ようとう)二萬言(げん)
なお日課として、蠅の頭のような小文字二万語を、毎日読むことにしている。
陸游はこの詩にみずから注して、「時にまさに小本の通鑑(つがん)を読む」という。小本の通鑑とは、小型本の史書「資治通鑑(しちつがん)」(宋の司馬光撰)である。わざわざ自注をほどこしたのは、読書の対象が、過去を鑑(かがみ)として現実に反省を加え、現実を批判する歴史書であること、それを示すためであろう。
元元とは、天下の民百姓のことをさし、陸游は別の詩でもしばしばこの語を使っている。
(以上、読み下しと解説は一海さん、同書、p402-3)
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補注 資治通鑑 ウィキペディアによると・・・
『資治通鑑』(しじつがん、繁体字: 資治通鑒; 簡体字: 资治通鉴; ピン音: Zīzhì Tōngjiàn; ウェード式: Tzu-chih T’ung-chien)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。
収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。
この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
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司馬光は『資治通鑑』の史体をえらぶ時、あえて当時全盛であった『史記』『漢書』以来の正史の形式である紀伝体を取らず、編年体とした。これは彼が儒学の経典である『春秋』に倣うことを目的としたもので、極めて名教的色彩に富んだ選択であった。
本書は、はじめは単に「通志」(南宋の鄭樵による『通志』は別のもの)と呼ばれ、全8巻として1064年(治平元年)に英宗に上呈された。その後、神宗の代になって「政治上の参考に資するもの(治に資し通じて鑑みる)」という意味合いをもたせて、『資治通鑑』という名を賜った。内容的には、正史に記載されていない、322種にのぼる豊富な資料に基づいて考証を加えている。とりわけ、隋唐五代の部分は、欧陽脩の『新唐書』編纂以降に収集された資料を駆使しているため、正史としての『旧唐書』や『新唐書』、『旧五代史』・『新五代史』と同様に、高い史料的価値を持っている。
本書の作製方法としては、可能な限りの資料を収集し、それを年月日に整理し直して一つの一大資料集(長編とも呼ばれた)を造り上げるという第一段階。次いでその大資料集を下に、司馬光が治世に役立つもののみを択び取り、『資治通鑑』として完成させるという第二段階があった。
・・・(中略)・・・
元初の胡三省による本書に対する注釈(「胡注」)は、記事を補正した上に、さらに異なった史料をも提供しており、本書を読む上での必読の文献であり、『資治通鑑』に付された多くの注の中でも、もっとも優れたものである。
以上、ウィキペディアより引用終わり。
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補注: 資治通鑑の日本語への翻訳計画に関して・・・
http://www.geocities.jp/zizhitongjianjp/(手分けして翻訳してゆこうという計画)
資治通鑑の原文へのリンクとして・・・
★『通鑑』電子テキストへのリンク:
熾天使書城(繁/BIG5) http://angelibrary.com/oldies/zztj/
国学(簡/GB) http://www.guoxue.com/shibu/zztj/zztjml.htm 版权所有 北京国学时代文化传播有限公司 制作 Copyright© 2000
※どちらも底本が不明な上、誤字が多いので注意のこと。
検索には寒泉を参照、とのこと。
補注: アマゾンのサイトで調べると、徳田さんの翻訳が進行中。徳田本電子版 全訳資治通鑑 7 李陵蘇武 までが入手可能。「史記」の範囲までだから、宋の建国までというとまだ長い道のりである。
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補注 胡三省 ウィキペディアによると・・・
胡 三省(こ さんせい、紹定3年(1230年)- 至元24年(1287年))は、南宋末期の政治家・歴史家。浙江省天台の人。元の名は満孫、字は身之、号は梅澗。『論語』の「吾日三省吾身」の一句より三省と改名し、字を景参とした。
宝祐年間(1253年-58年)頃の進士。賈似道政権下で朝奉郎などを務めたが、南宋が元に滅ぼされると隠居して官に就く事はなかった。
司馬光が著した歴史書『資治通鑑』の研究に尽くして、『資治通鑑音注』・『通鑑釈文辨誤(釈文弁誤)』という注釈書を著した。彼が付けた注釈の精度の高さから、その注釈のみで歴史書に値するとまで言われている。
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補註 陸游(1125-1209)は胡三省(1230-1287)よりも前の時代(南宋vs金の時代)に生きた。
北宋崩壊(1127年)の直前に生まれている。
南宋は、1127年から1279年。元は、1271年から1368年。明は、1368年から1644年。
陸游が読んでいたのは、木版印刷の資治通鑑であろうか。非常に大部な294巻本であるから、何十分冊にもなっていたことであろう。(2016年12月1日追記)
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