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ノルマン=北方ゲルマン:「中世」を決定づけた民族移動“第三撃”

2022年1月4日 火曜日 雪

神野正史、「移民」で読み解く世界史、イースト・プレス、2019年

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ノルマン=北方ゲルマン:「中世」を決定づけた民族移動“第三撃”

・・残留組を「北方ゲルマン(ノルマン)」、南下組を「(南方)ゲルマン」と区別して呼ぶようになりましたが、「欧州にダメ押しの“第三撃”」となった民族こそ、このノルマン人です。(神野、同書、p94)

・・ローマ帝国を亡ぼした「寒冷期(イベント1)」は7世紀以降温暖化に向かったため、これを背景としてノルマン人も順調に人口を増やしていたのですが、9世紀に入ると突如として急激な寒波が襲いかかります。  これにより、コムギ栽培の北限が大幅に南下し、大凶作が吹き荒れ、北欧に飢饉が襲いかかるに至り、先の寒冷期(イベント1)には動かなかった彼らもついに耐えられなくなり、北海・バルト海を中心に「海賊ヴァイキング」として掠奪行為を繰り返すと同時に、新天地を目指して植民も行うようになります。  ノルマン人はノール人・デーン人・スウェード人の3派に分かれていましたが、それぞれが民族移動を行った結果、スウェード人はロシアに植民してノヴゴロド公国(ロシアの祖型)を建て、ノール人は北フランスに植民してノルマンディー公国、南イタリアでは両シチリア王国を建て、デーン人はイギリスに植民してイギリス王位を簒奪してデーン朝を創始し、このころ現在の欧州主要諸国が出揃いました。(神野、同書、p96)

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9世紀の“寒の戻り”を過ぎ、地球はふたたび温暖化、12世紀にはヨーロッパが拡大しはじめた。

・・これは言わば“寒の戻り“のようなもので、基本的に7〜14世紀までは温暖な時代がつづきます。  これを背景として、10世紀には三圃制、11世紀には重量有輪犂が導入されて飛躍的に農業生産力が高まり(これを「中世農業革命」といいます)、12世紀を中心として「大開墾時代」を迎えました。  こうして人口が増え、余剰物資が生まれるようになると、そのみなぎる力を“外”に吐き出そうとするのは自然の流れ。  それが形となって表れたものが、東北へは「東方移民」、南西へは「再征服運動レコンキスタ」、南東へは「十字軍クルーセイド」です。(神野、同書、p100〜101)

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補註#)ノルマン勢力 ウィキペディアによると・・・

ロベルト・イル・グイスカルド・ダルタヴィッラ(伊:Roberto il Guiscardo d’Altavilla, 1015年 – 1085年7月17日)は、ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てたオートヴィル家の首領。兄ウンフレードの死後、プッリャ・カラブリア伯(1057年 – 1059年)、後にプッリャ・カラブリア公(1059年 – 1085年)。フランス語名でロベール・ギスカール(Robert Guiscard de Hauteville)とも呼ばれる。当時の共通語であるラテン語ではロベルトゥス・グイスカルドゥス(Robertus Guiscardus)。イル・グイスカルドとは「狡猾な人」を意味する呼び名である。

ノルマン人のタンクレード・ド・オートヴィルの六男として生まれる。オートヴィル一族は当初傭兵などをやっていたが、やがて南イタリアのアラブ領や東ローマ帝国領を攻略するようになり、ロベルトの兄達は1042年にイタリアのプッリャ伯になった。ロベルトは、1047年にノルマンディーを出てイタリアのロンバルディアに向かった。その時は5人の騎士と30人の従者を連れただけで、しばらく山賊のようなことをやっていたが、やがて1057年、兄の後を継いでプッリャ伯となり、弟のルッジェーロ達と共にカラブリア、シチリア等の諸都市を征服していった。

詳細は「ノルマン人による南イタリア征服#シチリアの征服、1061年–1091年」を参照

ローマ教皇ニコラウス2世は、神聖ローマ皇帝との争いに備えて、これらのノルマン騎士を手懐けるため、1059年にロベルトをプッリャ、カラブリア、シチリアに正式に封じた。但し、いまだこの地方はサラセン人や東ローマ皇帝領が点在していた。その後、1068年にアフリカのジリア朝から送られた軍隊を打ち負かし、1076年までに弟と共にシチリアと南イタリアの多くを征服した。たとえば、当時アラブ人に支配されていたメッシーナを攻略中に、当時拠点にしていたメルフィが1061年1月に東ローマ帝国のコンスタンティウス10世の軍に囲まれた。ロベルトは全軍を戻して再奪取に当たり、カラブリアの平定に成功した。1072年にロベルトはシチリアをルッジェーロに譲り、自身はプッリャとカラブリアを支配した。

ローマ人との戦い: 1081年に東ローマ帝国征服を目指し、東ローマ皇帝アレクシオス1世の軍を破り、コルフとアルバニアを占領したが、叙任権問題のこじれにより神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世にサンタンジェロ城を包囲されたローマ教皇グレゴリウス7世の救出に呼び戻された。ロベルトの接近によりハインリヒ4世は撤退したが、後を追い、1084年5月にローマに入城し略奪を行った。この間に、ギリシアを占領していた息子のボエモンが占領地を失ったため、再び東ローマ遠征を行ったが、1085年7月17日に熱病で亡くなった。

補註)参考地図は・・

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Italy_and_Illyria_1084_AD.svg

ロベルトのバルカン遠征中のノルマン人による征服:カプア公国プッリャ・カラブリア公およびシチリア伯国がノルマン人国家。シチリア首長国、ナポリ公国およびアブルッツォ(スポレート公国南部)は征服されていなかった。

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補註: 同じく11世紀、1066年のノルマン人(ギヨーム二世=ウィリアム一世)によるイングランド征服を参照。武力に長けたノルマン人たちがノルマンディーに留まることなく、ノルマンディー公のイングランド、オートヴィル家のシチリア、第一次十字軍へと征服の歩を進めていく。彼らは定住志向の農業民族ではない。商業と征服を生業としているバイキング、ゲルマン人の一派なのである。

ウェブ情報によると・・ <以下引用>

ノルマン‐じん【ノルマン人】《Norman》スカンジナビア半島・デンマーク地方を原住地としたゲルマンの一派。 航海術に長じ、8世紀ごろからバイキングとして欧州各地に侵入。 10世紀、一部がノルマンディー地方に移住、11世紀にイングランドを征服してノルマン朝を建て、また、両シチリア王国・ノブゴロド公国を建国した。

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12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す。 Image:Normannen.png created by de:Captain Blood (originally taken from the German Wikipedia)Map in French of the Normans’ possessions in the 12th century

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