溝口雄三 李卓吾 正道を歩む異端 中国の人と思想10 集英社 1985年
道尽き心安んずる、それが死所。身は滅ぶとも魂さえ存していれば、不足するところはない。(溝口、同書、p126)
道尽き、というのは、たんに人としての道をつくすというにとどまらず、この無限の視点によって、真になすべきに徹底するということ。(溝口、同書、p134)
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李卓吾の「何心隠論」(焚書)より:
どの死を得ようとも受け入れる。死を畏れるというのでもなく、また死を畏れないというのでもない。ただそれに従容としたがうのみだ。(溝口、同書、p129、同じく、p127)
名という有限の価値にではなく、道という無限の価値について死ぬとき、人は従容とそれに従うことができる。なぜならそのとき人はすでに生死をこえているのであり、したがって、その死もかえって永遠の生とさえなる。(溝口、同書、p129-130)
世間を超出する出世と経世が一味:
世間を離脱して超俗的または反俗的に生きようというのではなく、世間のなかにずぶりとひたり、世間の諸事に正面から対処しながら、しかもそのなかに埋没せず、また跼蹐(きょくせき)せず、現在の事を貫通して「遠見」を働かせる宇宙大の視点、無限の時点から現在をとらえ、現在のなかに真にあるべきありかたを眺望する、というのが、李卓吾における道へのかかわり方です。(溝口、同書、p132-133)
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若無(李卓吾の弟子僧)の母から、息子(若無)への手紙(李卓吾「若無の母の寄書を読む」「焚書・巻四」より):
「・・・なんにもかかわらずに心が不動だというのと、家族のことにかかわって心が動くというのと、いったいどちらが真(まこと)でどちらが仮(うそ)ですか。・・・家族のことにかかわるのは、みたところは心が動くようで、心の底には安らぎがあり、じつはこれこそが不動心というもの」(溝口、同書、p121)
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松陰の「死の一字について」
李氏(李卓吾)の焚書からの抄、伝馬町の獄舎から松陰が高杉晋作に書き送った手紙より:
「死は好むべきに非ず、また悪(にく)むべきに非ず、道尽き心安んず、便(すなわ)ち是れ死所」「世に身生きて心死す者あり、身亡びて魂存する者あり。心死すれば生くるも益なきなり、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」(溝口、同書、p109、またp134)
著者(溝口)注:末句の「損なきなり」の損は、損得の損ではなく減損の損で、魂が存していればたとい身は亡びても減損するものは何もない、の意です。(溝口、同書、p135)
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HH補注: 事成らば王に帰し、事敗るれば身独り坐するのみ(溝口、同書、p112)・・・「史記」の中にでてくるとのことであるが、出所は(今の私HHには)わからない。
HH補註211228追記 ウェブ情報によると・・
今高祖の我が王を辱むるを怨む。故に之を殺さんと欲すれども、何ぞ乃ち王を汚すを為さんや。事をして成らしめば、王に帰し、事敗るれば、独り身坐すのみ。
川口雅昭 著「吉田松陰の死の意義・・」 — 想とした「死」を解明することができるのではないかという思いを … 何ぞ独り七たびのみなら … 禁は百も承知の前なり、古人の所謂『事成らば王に帰し、事敗れば …
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