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江戸時代の民衆社会は、国家的次元の出来事に左右されない強固な自立性を備えていた。

2021年3月13日 土曜日 曇り・暖かくなってきた・雪解け。

渡辺京二 近代の呪い 平凡社新書 2013年

・・幕末の民衆社会の成員が、いわゆる国家的大事について、オラしらねえという態度がとれたのは、民衆社会が国家的次元の出来事に左右されない強固な自立性を備えていたからで、民衆社会の内部では、人びとは自分たちの問題と主体的に取り組んでいて、オラ知らねえなんて態度はとっていなかったのです。これは実に健全な事態だったのだと思います。

というのは、国民の一人一人が国政や外交方針などについて、十分な知識と見識を持たねばならぬなんて、しんどいことじゃないでしょうか。現実には、国民一人一人が国政に参加して論客となれば、そこに出現するのはメディアに煽動されたポピュリズム政治であることが多いようです。そもそも民主主義政治というのは、国民全部が論客になって議論せねばならぬものでしょうか。それでは何のために代議制があり、何のために政治家という職分があるのでしょうか。・・・(中略)・・・国民が全員政治に関心があって、政治評論家になるというのは不健全な状態だと思います。

私たちの一生のうちに遭遇する大事な問題は、何も国家とか国政とかに関わる性質のものではありません。そんなものと関係がないのが人間の幸福あるいは不幸の実質です。また私たちはまったくの個人として生きるのではなく、他者たちとともに生きるのですから、その他者たちとの生活上の関係こそ、人生で最も重要なことがらです。そして、そういう関係は本来、自分が仲間たちとともに作り出してゆくはずのものです。

近代というのは、そういう人間の能力を徐々に喪わせてゆく時代だったのではないでしょうか。すべての生活の局面が国家の管理とケアのもとに置かれ、・・・(中略)・・・いずれも国家に要求するという行動様式に型をはめられてしまう。要求すればするほど国家にからめとられてゆく。そして、実質的な人生のよろこびから遠ざかってゆく。(渡辺、同書、p50-52)

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