literature & arts

ヘンリー・ミラー パリは娼婦に似ている

2016年11月10日 木曜日 晴れ

ヘンリー・ミラー 北回帰線 本田康典・訳 水声社 ヘンリー・ミラー・コレクション1 2004年

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パリは娼婦に似ている。パリを遠くから眺めると、その姿にうっとりさせられ、両腕で抱きしめるまで待っていられないほどだ。ところが5分後にむなしい心地がし、自分自身にうんざりする。裏切られたような気がしてくる。 ぼくはポケットに金を突っ込んでパリへ帰ってきたーーー数百フランもある。・・これだけあれば、部屋代と、控えめにみても一週間分の食糧がまかなえる。ここ数年間一度にこれほどの金を手許で拝んだことがない。ぼくは意気揚々となり、あたかも新しい人生がぼくの眼の前に開いているような気がした。この金を節約して使いたいとも思ったので、・・(以下、略)(ヘンリー・ミラー、同書、p211)

シャンパンとかブロンド女がぴったりしがみついていたり、照明も薄暗いし、数百フランの金が与えてくれるゆるぎない安心感もあって、まあいいか・・ぼくたちはもう一度踊った。(同、p214)

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夏もだいぶ終わりに近づくと、フィルモアが一緒に暮らさないかと誘ってくれた。・・・(中略)・・・ 雨季が迫っていた。じめじめした、みじめなきぶんにしてくれる油脂と霧とほとばしる雨の長くわびしい雨季が。そして、冬の忌まわしき空間、パリ! 魂に次第に食い込み、ひとをラブラドル地方の沿岸のように殺伐とした気分にする気候。ぼくはいささか不安な気持ちでこのアパートの唯一の暖房手段が部屋の小さなストーブであることに気づいた。しかしながら、アパートはそれでも快適であり、窓からの眺望はすばらしい。(同書、p221)

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補註 1930年のパリの空の下では・・

ヘンリー・ミラーは、1891年生まれ(本田康典、同書末尾の解説、p316)。「北回帰線」の執筆開始は1930年。ミラーの小説家としてのスタートは30代後半で、比較的遅い。

芸術作品としての小説を鑑賞することからはポイントがずれるかもしれないが、1930年という年を切り口として、どのような人々(主に芸術家であるが)が生きていたかを概観してみたい。

パリの住人・・「人間の絆 (Of Human Bondage) 1915年の出版」のフィリップ(補註 私にはとても親しく感じられる主人公、高校時代からの愛読書)が絵画の勉強をして暮らしたパリは1890年代だから、WSモーム(1874-1965、パリに生まれリヴィエラで死す)のパリは、このヘンリー・ミラーの1920年代から30年前、つまり一世代前のパリになる。「Cakes and Ale」 が、1930年の出版である。(モームは56歳)

1930年ーーーちょうどこの時代、(以前の私のウェブ・ページでも紹介している)「パリ・ロンドン放浪記」のジョージ・オーウェル(1903年生まれ)もパリに暮らした。1928年から1929年、文章を書きながら、のちには皿洗いとして働きながらパリで暮らす。1930年から1931年はロンドンとロンドン周辺を、浮浪者にまじって放浪する。その経験をもとに、1933年に最初の著作、『パリ・ロンドン放浪記』を刊行したのである(ウィキペディアより)。

そして私が思いだすのは金子光晴(1895年生まれ)のパリ暮らしだ。「1930年(昭和5年) 1月、パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ。のちに金子は「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやった」と当時の生活について述べている。(ウィキペディアより)」・・私(補註者)の記憶では、何でもではなく、男娼(娼夫と書くべきか)以外は何でもだったはずだ。こうして調べてみると、金子光晴もまた奇しくもヘンリー・ミラーと同じパリの空の下で、ほぼ最底辺の放浪をしていたことになる。

音楽家でいうと、プロコフィエフのパリ、1923年(32歳)から1932年(41歳)が重なる。この夏に西村朗さんのラジオ番組で勉強したばかりだ。一方、たとえば、ニジンスキー(1890年生まれ)が振り付けをしたストラヴィンスキーの『春の祭典』・・これは1913年のことだから、ヘンリー・ミラーのパリとは、第1次大戦を挟んでしまう。大戦を挟んでの隔たりがどれほどのものか、私は不勉強でわからない。

有名な画家ではモジリアニ(1884-1920年)、彼は1930年にはすでに死んでいる。ミラーの小説の中でも言及されるモンパルナス生まれのモーリス・ユトリロ(1883-1955)が活躍したのも1910年ごろまでであるから、ユトリロが1930年当時まだパリに住んでいたとしても(芸術家としては)過去の人かもしれない(ウィキペディアでは1920年代以降のユトリロに関する記載が乏しい)。ピカソ(1981-1973)も1900年の初頭からの活躍だ。1930年ごろも大活躍である。レオナール・藤田(1886-1968)がパリにやってきたのは1913年のこと。モンパルナスでは藤田の隣の部屋にモジリアニが住んでいたという(補註の補註参照)。オシップ・ザッキン(補註参照)を介してヘンリー・ミラーともつながっている。ただし、この1930年時点では、ピカソと同列に並んでいる画家かもしれない。すでに勲章ももらっているような高名なエスタブリッシュであった。(下の補註参照)。

アンリ・カルティエ=ブレッソン(1908年 – 2004年)が本格的に写真に取り組み始めたのは1931年からということなので、彼のライカにはヘンリー・ミラー本人が写っていないとしてもその知人は写っていることであろう(確率的に考えて妥当なはず)。

ヘミングウェイ(1899年生まれ)は、「戦後はカナダ・トロントにて「トロント・スター」(英: Toronto Star)紙のフリー記者をつとめ、特派員としてパリに渡りガートルード・スタインらとの知遇を得て小説を書き始めた」とある(ウィキペディアより)。ヘンリー・ミラーよりは年齢は若いが、小説家としてのスタートは早い。ミラーと同じパリの空の下で暮らしていたことはあったのだろうか。(1930年にはすでにパリを離れていたらしい)。

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補註 パリの空から遠く離れた1930年・・

ちなみに、ウィリアム・フォークナーの活躍もちょうど1930年前後であるが、フォークナーとパリとは結びつかない。「フォークナーはその生涯の大半をミシシッピ州ラファイエット郡の田舎町オックスフォードにある自宅「ローアン・オーク」(Rowan Oak)で過ごしており、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。」とのこと(ウィキペディアより)。

また、ちなみに、「タンゴの歴史 – Histoire du Tango II. カフェ 1930 – Café 1930」というピアソラ(1921年-1992年)の曲が有名である(私もファンの一人)が、このカフェはブエノスアイレスのカフェかもしれない。1930年にはピアソラはまだ9歳である。

さて、昭和5年というと、・・私の母が3歳である。満州事変の少し前。

近代日本を代表する詩人・萩原朔太郎は、明治19年~昭和17年(1886-1942)。朔太郎とフランスといえば「純情小曲集」の有名な詩を思い出す。1925年の出版である。

 旅 上
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに

朔太郎はフランスに行かなかったけれど、きっとこの詩を読んでいたであろう金子光晴はフランスに行ってしまうのである。ヘンリー・ミラー並みにお金を持たない貧乏滞在である・・・無一物の日本人。

補註の補註 金子光晴は1930年の時点でほぼ無名の詩人であるから、レオナール・藤田(パリ滞在17年目)には、きっと随分と世話になった(たかった?)のではなかろうか。金子光晴を読み返してみるときにはこんな視点からも注目してみたい。

もうひとつ、わが日本の大杉栄(1885年生まれ)のパリ、年号を忘れるのは難しい1923年のことである。

高村光太郎も西洋留学から多くを学んだ人である。光太郎のパリは、1908年頃だから、ユトリロがモンパルナスで描いていた頃である。「1906年(明治39年)より留学に出て、ニューヨークに1年間、その後ロンドンに1年間、パリに9ヶ月滞在し、1909年(明治42年)に帰国」とのこと(ウィキペディアより)。
高村光太郎(1883-1956)の1930年:
・・1914年(大正3年)に詩集『道程』を出版。同年、長沼智恵子と結婚。・・1929年(昭和4年)に智恵子の実家が破産、この頃から智恵子の健康状態が悪くなり、のちに統合失調症を発病した。1938年(昭和13年)に智恵子と死別し、その後、1941年(昭和16年)に詩集『智恵子抄』を出版した。

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補註の補註 藤田嗣治 ウィキペディアによると・・・
藤田 嗣治(ふじた つぐはる、1886年11月27日 – 1968年1月29日)は日本生まれの画家・彫刻家。戦前よりフランスのパリで活動、猫と女を得意な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などは西洋画壇の絶賛を浴びたエコール・ド・パリの代表的な画家である。フランスに帰化後の洗礼名はレオナール・フジタ(Léonard Foujita)。・・・(中略)・・・
パリでの出会い:  1913年(大正2年)に渡仏しパリのモンパルナスに居を構えた。当時のモンパルナス界隈は町外れの新興地にすぎず、家賃の安さで芸術家、特に画家が多く住んでおり、藤田は隣の部屋に住んでいて後に「親友」とよんだアメデオ・モディリアーニやシャイム・スーティンらと知り合う。また彼らを通じて、後のエコール・ド・パリのジュール・パスキン、パブロ・ピカソ、オシップ・ザッキン、アンリ・ルソー、モイズ・キスリングらと交友を結びだす。フランスでは「ツグジ」と呼ばれた(嗣治の読みをフランス人にも発音しやすいように変えたもの)。また、同じようにパリに来ていた川島理一郎や、島崎藤村、薩摩治郎八、金子光晴ら日本人とも出会っている。このうち、フランス社交界で「東洋の貴公子」ともてはやされた薩摩治郎八との交流は藤田の経済的支えともなった。・・・(中略)・・・
当時のモンパルナスにおいて経済的な面でも成功を収めた数少ない画家であり、画家仲間では珍しかった熱い湯のでるバスタブを据え付けた。多くのモデルがこの部屋にやってきてはささやかな贅沢を楽しんだが、その中にはマン・レイの愛人であったキキも含まれている。彼女は藤田のためにヌードとなったが、その中でも『寝室の裸婦キキ(Nu couché à la toile de Jouy)』と題される作品は、1922年のサロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こし、8000フラン以上で買いとられた。
このころ、藤田はフランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれ、フランスでは知らぬものはいないほどの人気を得ていた。1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。<以上、ウィキペディアより引用終わり>。

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補註の補註 オシップ・ザッキン ウィキペディアによると・・・
オシップ・アレクセーエヴィチ・ザッキン(Ossip Zadkine、本名:Osip Alekseevič Cadkin (Tsadkin)、キリル文字表記:Осип Алексеевич Цадкин(オシップ・アレクセエヴィチ・ツァトキン), ユダヤ名Иосель Аронович Цадкин(ヨセリ・アロノヴィチ・ツァトキン)、1890年7月14日 – 1967年11月25日)は、旧ロシア領のベラルーシ・ビテプスク出身の彫刻家、画家。・・・(中略)・・・
1909年にフランス・パリに渡りパブロ・ピカソやアメデオ・モディリアーニ、藤田嗣治たちと知り合い、ともにエコール・ド・パリ(パリ派)の芸術家として活躍する。キュビスムの彫刻家として知られるが黒人彫刻の影響を受け、アフリカ的手法を取り入れながら再構成していく素朴な作品も多い。非人間的になりがちであるキュビスムの枠を超え、生命力に満ち溢れた独自の造形を生み出した。
1920年、隣家に引っ越してきたアルジェリア出身の女流画家だったヴィランティーヌ・プラックス(Valentine Henriette Prax)と知り合い翌年に藤田を証人に立てて結婚する。
1940年から戦災を逃れてアメリカへと渡るが戦後すぐ帰国し、没するまでパリを拠点に精力的に活動し1950年のヴェネツィア・ビエンナーレで「彫刻大賞」を受賞、続いて1960年には「芸術国家大賞」を受賞し名実ともにフランスを代表する彫刻家となり1962年からパリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の教授を務めた。
なおモンパルナスの中心部にあるザッキンと妻のヴィランティーヌのアトリエ兼住居は現存しており、「ザッキン美術館」として1982年より一般公開されている。
藤田の斡旋もあり二科会外国会員として二科展に出品を続けた親日家としても知られ、多くの作品を日本でも見ることができる。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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補註 ザッキンは、ヘンリー・ミラー本(北回帰線)の中では、ボロフスキという名で登場する。「1928年のパリ滞在中もザッキンと交流があり、ミラーは1930年の3月4日にパリに到着すると、その翌日にザッキンを訪問した。ミラーはザッキンをジューン(ミラーの2番目の妻。「北回帰線」の中ではモーナ)の愛人たちのひとりであるとかんぐっていた。・・借金まみれのミラーはザッキンから500ドルを借りていた。当時のミラーの借金一覧表では最大の金額である」とのこと(本田康典、「北回帰線」巻末の解説、p333-334)。

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補註 エコール・ド・パリ ウィキペディアによると・・・
エコール・ド・パリ(フランス語: École de Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさまざまな画家たちの総称。
1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれる。 印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではない。
アメデオ・モディリアーニをはじめ、個性的な画家が多く、後の世代の画家たちへの影響も大きい。

補註 マン・レイ ウィキペディアによると・・・
マン・レイ(Man Ray, 本名:エマニュエル・ラドニツキー Emmanuel Rudnitsky, Эммануэль Рудзицкий, 1890年8月27日 – 1976年11月18日)は、アメリカ合衆国の画家、彫刻家、写真家。ダダイストまたはシュルレアリストとして、多数のオブジェを制作したことでも知られる。レイヨグラフ、ソラリゼーションなど、さまざまな技法を駆使し、一方でストレートなポートレート(特に同時代の芸術家のポートレート)も得意とし、ファッション写真と呼べるような作品もあったりと、多種多様な写真作品群を残している。・・・(中略)・・・
1921年7月、エコール・ド・パリの時代であったパリに渡り、モンパルナスに住みながら本格的に写真に傾倒する。同年6月にパリに戻っていた親友のデュシャンの紹介によって、パリのダダイストたちと交友を始める。パリに渡って数ヶ月後にはフランスの歌手・モデルであるキキに出会い恋に落ちる。職業的な写真家として成功をおさめ、ファッション雑誌などに写真が掲載されるようになる。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと交友し、ブランクーシに写真の技術の手ほどきをする。シュルレアリスム運動が起こると、シュリレアリスト達とも交わり、シュルレアリスム的作品も手がけることとなる。ソラリゼーションを表現技法として最初に利用したことでも有名。
1925年、第1回シュルレアリスム展にマックス・エルンスト、パウル・クレー、アンドレ・マッソン、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソらと共に参加。シュルレアリスム的作品を手がける一方で、当時のアーティスト達の姿も写真に収めている。

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補註 サルバドール・ダリの活躍したのは主にスペインであるが、ウィキペディアによると、
「1927年(補註・ダリ23歳頃)、パリに赴き、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアール、ルイ・アラゴン、アンドレ・ブルトンら、シュルレアリスムの中心人物たちと面識を得た」とある。上記、マン・レイの項にはダリと並んだツー・ショットの写真が載せられている。
ウィキペディアによると・・・ サルバドール・ダリ(1904-1989)は、スペインの画家。シュルレアリスムの代表的な作家として知られる。「天才」と自称して憚らず、数々の奇行や逸話が知られている。<以上、ウィキペディアより抄・引用終わり>

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補註 シュールレアリスムのダリにまで注釈が進むと、必定、私としてはそのようなパリにまつわる芸術家たちとは対照的な人々の生きかたを想起する。たとえば、ユーラシアの東の海の東に浮かぶ日本列島で生きた宮澤賢治。

・・おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらすべての田園とわれらのすべての生活をひとつの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか・・(宮澤賢治、農民芸術論概論、1926年頃、青空文庫より引用)

宮澤賢治の1930年は・・(以下、ウィキペディアから抄録)
1926年(大正15年)3月31日、花巻農学校を依願退職。・・「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習をはじめた。6月『農民芸術概論綱要』起稿。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。 また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談にのった。・・・(中略)・・・1930年(昭和5年)、体調が回復に向かい、文語詩の制作をはじめる。・・・(中略)・・・ 1931年(昭和6年)・・9月19日、40キロもの製品見本を鞄に詰めて上京する。翌20日、神田駿河台の旅館「八幡館」に泊まるが高熱で倒れ、・・・(中略)・・・ 病臥生活となる。11月、手帳に『雨ニモマケズ』を書く。・・1932年(昭和7年)3月、「児童文学」第二冊に『グスコーブドリの伝記』発表。挿絵は棟方志功。病床では文語詩の制作や過去の作品の推敲に取り組む。前年冬から医者にもかからず、薬はビール酵母と竹の皮を煎じたものを飲むだけだった。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

賢治の「農民芸術の興隆」から引用する:
芸術はいまわれらを離れ多くはわびしく堕落した。・・人口の一割がそれを買い鑑賞し享楽し九割は世々に疲れて死する。・・ここに芸術は無力と虚偽である。ワグナア以後の音楽 マネイ セザンヌ以後の絵画 ・・(中略)・・ いま宗教家芸術家とは真善若しくは美を独占し販るものである。科学ももとより販売される。・・(中略)・・われらに購うべき暇もなくまたさるものを必要とせぬ。いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ。(青空文庫より引用。ただし、仮名遣いを若干改め、句読点を追加した)

以下、青空文庫から引用:
(宮澤賢治は)自分をすてて人の為に尽し、殊に貧しい農夫の為になる事を一所懸命に実際にやりました。詩人であるばかりでなく農業化学や地質学等の科学者でもあり、酸性土壌改良の炭酸カルシュームを掘り出したり、世の中にひろめたりしました。皆さんの知っている「雨ニモマケズ」の詩は病気でねている時に書いたのですが、今日でも多くの人に救と力とを与えています。「風の又三郎」を映画で見た事がありますか。あの童話も宮澤賢治の作ったものです。此詩人は全く世界的な大詩人といっていいでしょう。 ○啄木といい、賢治といい、皆誠実な、うその無い、つきつめた性格の人でした。(高村光太郎、「啄木と賢治」より抄、青空文庫)

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