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持統の吉野行幸

2016年2月9日 火曜日 札幌、午後は晴れ、朝降った雪が溶けかかっている。つまり、札幌は0度より上で、陽差しも暖かい。

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白川静 初期万葉論 中公文庫 2002年 (初出は中央公論社 1979年)

吉野の地が王権との関係において重要性を加えるのは、天智十(六七一)年、大海人皇子が大友に位を避けて沙門となり、その妃とともにこの地に隠れてからのことであるが、「天武前紀」にはそのことを「吉野の宮に入る」としるしている。そしてここが壬申の乱の根拠地となり、こと定まってのち、天武八(六七九)年五月、吉野に幸して、皇后と・・・ら六皇子を会し、「一母同産の如く慈(めぐ)まむ」ことを誓われた。そして天武の崩後、持統の頻繁な吉野行幸が始められるのである。人麻呂の吉野賛歌はその持統期の儀礼歌であり、・・・それにしても持統期のあの頻繁な行幸は、それまでの吉野の歴史のなかでは説明することのできない異常さをもっている。そのため行幸の目的について種々の推測が行われている。・・・(中略)・・・行幸の「目的は禊ぎ」にあったとするのは、四季を通じて行われている行幸の説明としては無雑作にすぎよう。・・・(中略)・・・持統期のこの頻繁な行幸が、政治的意図をもつ国見であったとするには、その地があまりにも幽僻に過ぎていよう。 持統の吉野行幸は、たとえば四年には二・五・八・十・十二、五年には一・四・七・十、また七年には三・五・七・八・十一の各月のようにある間隔をおいて年中行事的な形で行われている。そのような季節的行事は、古代の中国において招魂続魄とよばれる魂振り的儀礼であり、山本健吉氏のいう禊ぎもそのような意味をもつものであるから、この吉野行幸のもつ本質的な意味は、その招魂続魄にあるとしなければならぬ。しかしその招魂続魄の儀礼の場所として、この吉野の地がえらばれているのには、またそれにふさわしい理由のあることであろう。(白川、同書、p144-146)

豈弟(がいてい)の君子(よき人の)ここに遊びここに歌ひて 以てその音(歌)を矢(つら)ぬ 大雅「巻阿」(けんあ)の篇 第一章
「豈弟の君子」は、「よき人のよしとよく見てよしといひし」(一・二七)のよき人などに当たることばであろう。(白川、同書、p147)

見れど飽かぬ
人麻呂の第一作は、「この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激(たぎ)つ 瀧の都は 見れど飽かぬかも(万葉一・三六)」という詞句で結ばれ、また反歌はそれを承けて「見れど飽かぬ吉野の川の常滑(とこなめ)の絶ゆることなくまた還り見む(万葉一・三七)」と歌う。長歌の末尾は一篇の律動の集約されるところであり、反歌はその集約をゆるめて抒情化し、余韻を託するものであるとすれば、吉野賛歌の主題は「見れど飽かぬ」ということばでその山川を讃頌することにあるといえよう。・・・神からとして見が欲しく思われ、またそのゆえに「見れど飽かぬ」というのが、山川の賛歌の定まった呪的表現であるらしい。・・・「見れど飽かぬ」は、その状態が永遠に持続することをねがう呪語(じゅご)であり、その永遠性をたたえることによって、その歌は魂振り的に機能するのである。(白川、同書、p152-153)

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吉野は聖地であり、そこでは持統期において、ときには年に五度にも及ぶ行幸がなされた。おそらく天皇霊に関する神事がその主要な目的であったと想像される。そこでは神水を酌み、・・・(中略)・・・人麻呂歌は、そのような吉野神事の盛行のときに、儀礼歌として歌われていたものであろう。しかし元明・聖武のときに復活した吉野の神事は、すでに持統期の秘儀性が失われ、かなり遊幸的なものとなっていたようである。吉野に限らず、この二十年ほどの間に、奈良*都による唐風の礼式の宮廷化、仏教文化の興隆と火葬、律令制による氏族的秩序の崩壊などによって、人びとの意識の上にも大きな変革がもたらされていたであろう。呪歌の伝統もこの意識の変革のなかで失われてゆき、巻二巻頭の挽歌を相聞歌と解するような誤認も生まれるのである。(白川、同書、p195-196)

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