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千年のビザンツ帝国; 1204年の十字軍によるコンスタンティノープル陥落; プロノイア制の拡大した後期ビザンツは、中央集権を旨とする君主専制の「帝国」とは呼べない。

2020年11月11日 水曜日 曇り

中谷(なかたに)功治 ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち 中公新書2595 2020年

ハギア・ソフィア大聖堂 周囲の尖塔はオスマン帝国時代のもの

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金角湾

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マヌエル一世の国内政治で注目すべき事項に、プロノイア下賜の拡大がある。彼の祖父のアレクシオス一世が開始した、軍事奉仕の対価として土地の徴税権などを授与する政策である。プロノイアを授与された者たちとは、高級爵位を有するコムネノス家につらなる一門のメンバーであったから、これはある意味で国有地の政権メンバーへの配分であった。  皇帝専制を建前とするビザンツにあっては、その基本理念に矛盾する要素を含んだ権力分散的施策である。プロノイアは、その後一三世紀後半のミカエル八世時に世襲化が進展した。パライオロゴス朝をビザンツ「帝国」に含めない本書の考え方は、プロノイア制の拡大した後期ビザンツは、中央集権を旨とする君主専制の「帝国」とは呼べないというものである。(中谷、同書、p247)

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ユスティニアヌス1世
ユスティニアヌス1世時代の東ローマ帝国(青)。青と緑色部分はトラヤヌス帝時代のローマ帝国最大版図。赤線は東西ローマの分割線

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コンスタンティノープルの陥落とビザンツ帝国の滅亡

 ・・首都の反ラテン勢力の支持を受けて即位したアレクシオス五世は、城外に滞在する十字軍への攻撃を指示した。ここにいたって十字軍将兵は、インノケンティウス三世へのキリスト教徒を攻撃しないとの誓いをまたしても破る決断を下した。

 一二〇四年四月、・・十字軍は鉄壁の陸上壁ではなく金角湾の内側から海の城壁を攻撃した。結局一二日に城壁は突破され、町が大混乱に陥る中、皇帝はトラキアへと逃亡した。

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約1000年にわたって難攻不落を誇った「テオドシウス(2世)の城壁」

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1422年に作られた現存する最古のコンスタンティノープルの地図

かくして、町と得も言われぬ美しさを誇った教会は焼かれ、その数を数えあげることを私たちはできないのである。歴代のすべての皇帝が描かれていたソフィア聖堂の表玄関、競馬場は焼けただれ、町並みは海にいたるまで、皇帝の門、スド[金角湾]のあたりまで焼け落ちた。 

三浦・平野「1204年の十字軍によるツァリグラード征服の物語」東大スラ文・年報 32,2017年、323〜342、331頁 (中谷、同書、p256)
アヤソフィア 6世紀に正教会の大聖堂として建てられたが、後にモスクに変わった。現在は博物館

 「バルバロイ」である第四回十字軍の攻撃によって、コンスタンティノープルは史上はじめて陥落し、ビザンツ帝国は滅亡した。キリスト教徒戦士によるキリスト教徒の都市、「都市の女王」への略奪は五日間にわたって続き、動かせる金目のモノはあらかた奪われた。  ・・これに先立つ四半世紀、各地で帝国からの分離独立運動が続いていた。それは周辺民族であるブルガリア人やセルビア人だけでなく、帝国内の貴族勢力によっても推進されていた。ある意味では、帝国の滅亡は必至の状態にあり、十字軍はその引き金を引いただけなのかもしれない。ともかく、帝国各地に盤踞する在地の有力者たちは、もはや帝国政府を必要としなくなっていた。この流れが一二〇四年の解体後の元ビザンツ世界の基調となってゆく。(中谷、同書、p256-257)

イスタンブールのスカイライン
イスタンブール市街の衛星写真。左がヨーロッパ、右がアジアで、両者の間を隔てるのがボスポラス海峡。海峡の南がマルマラ海で、北が黒海。マルマラ海の北岸、ヨーロッパ側に見える三角形の半島がイスタンブール旧市街で、海峡から旧市街に切れ込んだ海が金角湾。この写真から、旧市街から城壁や海を越えて市街地が拡大していることがよく分かる。
東ローマ帝国・版図・地図

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