biography

名将蒙恬が秦のために築いた万里の長城:百姓(ひゃくせい)の力を軽んず

丸山・守屋・訳 司馬遷 史記 3 独裁の虚実 徳間文庫 2005年 オリジナルは1988年徳間書店

名将・蒙恬(もうてん)の最期

恬が罪、もとより死に当たる。・・・城壍(じょうざん)万余里、これその中(うち)、地脈を絶つなきこと能わざらんや。これすなわち恬の罪なり。すなわち薬を呑んで自殺す。

太史公曰く

われ北辺にゆき、直道より帰る。行く行く蒙恬が秦のために築きしところの長城の亭障を観るに、山を塹り谷をうずめ、直道を通ず。まことに百姓(ひゃくせい)の力を軽んず。・・・而して恬は名将たり。この時をもって強諫(きょうかん)して、百姓の急をすくい、老を養い孤をめぐみ、務めて衆庶(しゅうしょ)の和を修めずして、意におもねり功(こう)を興(おこ)す。これその兄弟(けいてい)、誅に遇う、また宜(むべ)ならずや。なんぞすなわち地脈を罪せんや。(司馬遷、史記、同訳書、p244)

HH注:「きょうかん」の「きょう」漢字はコード1126。
兄弟: 兄の蒙恬と、弟の蒙毅(もうき)。ともに二世皇帝・胡亥により誅殺された。
亭障:邊境の塞トリデに設けて通行人の出入を檢查する關所。=亭堡。(字源WEB字書より)

HHコメント:「この時をもって強諫(きょうかん)して」・・・司馬遷のことばとして、万感の想いが迫り来る。李斯の最期への司馬遷の厳しいコメントも参照下さい。

李斯列伝より: 丸山・守屋・訳 太史公曰く・・・「だが、彼は学問の究極ーーー治国平天下の術を学んでいながら、公明正大な政治で主君を補おうとせず、高い爵禄を与えられながらひたすら主君に調子を合わせ、いたずらに刑罰だけをきびしくし、趙高(ちょうこう)の邪説を聞き入れて嫡子を廃し庶子を即位させた。諸侯が背いてから、ようやく主君を諫めようとしたが、そんなことは枝葉末節のことに過ぎない(また末ならずや)。(同訳書、p294-295)

一方で、勇気をもって信義を行動で示した欒布に対して司馬遷は「かれ誠に処するところを知りて、自らその死を重んぜざればなり」と高く評価する。  欒布列伝より:太史公曰く、欒布(らんぷ)、彭越(ほうえつ)を哭し、湯に趣くこと帰するがごときは、かれ誠に処するところを知りて、自らその死を重んぜざればなり。往古の烈士といえども、なんぞもって加えんや。(同書、p410-411)

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2021年1月1日HH追記: 神聖ローマ帝国を中心としたヨーロッパの三十年戦争に関して読んだ。そのとき、ヴァレンシュタインの生涯と死の記載を読んでいる中で、この蒙恬将軍のことを連想してしまった。

 https://quercus-mikasa.com/archives/11446 

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