2016年6月16日 木曜日 雨の降りそうな・風の強い・曇り空 肌寒い
げんげん畑の畔をぬけて君を送る 併せて得たり送春の愁
前のページが若干長くなったので、今度は一海さんの訳 君を送りて 併せて得たり 送春の愁 をタイトルとして、漱石の草枕から引用させていただく。
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一海知義 漢詩一日一首 平凡社 1976年 p180-181
送呂卿 明・高啓
遠汀斜日思悠悠,
花拂離觴柳拂舟。
江北江南芳草徧,
送君併得送春愁。
遠汀(えんてい) 斜日 思い悠悠(ゆうゆう),
花は離觴(りしょう)を拂(はら)い 柳は舟を拂う。
江北 江南 芳草徧(あまね)し,
君を送りて 併(あわ)せて得たり 送春の愁(うれい)。
(訓み下しは一海さんより)
はるかな汀(なぎさ)、沈みゆく太陽、友を見送る私の思いは、あてどもない。「悠々」は、空間的には遠くはるかなさまをいい、心理的にはとりとめもなく、あてどもないさまをいう。 今は楽しかるべき春である。花は別れの盃に散りかかり、柳の枝は旅立つ舟にふれてゆれる。・・君がいま舟で旅立つ大川の北も南も、かぐわしい草がいちめんに生い茂っている。それはたけなわの春の象徴である。 絶頂は下降への転折点だというが、君を送る今、私の胸は、この春をも共に送る思いにとざされる。 この詩には、構えとかてらいとかいったものがまったくない。同じ作者の「胡隠君を尋ぬ」がそうであるように、平易さへの挑戦がここにもある。(一海、同書、p181の解説より引用)
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補注 この詩を読んで、ふと、漱石の草枕の終局の一場面を思い出した。(日露戦争で徴兵されて)兵隊として旅立ってゆく青年を、舟に乗って、ステーションまで見送ってゆく、のどかな春の川下りの情景であった。漱石は高啓の詩の愛読者であったというから、ひょっとすると、草枕執筆の際にも、この詩のイメージがふと浮かんでくるようなことがあったかもしれない。
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補注の補注 草枕 十三 (青空文庫より引用)http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card776.html
川舟《かわふね》で久一さんを吉田の停車場《ステーション》まで見送る。舟のなかに坐ったものは、送られる久一さんと、送る老人と、那美さんと、那美さんの兄さんと、荷物の世話をする源兵衛と、それから余である。余は無論|御招伴《おしょうばん》に過ぎん。
・・・(中略)・・・
老人の言葉の尾を長く手繰《たぐる》と、尻が細くなって、末は涙の糸になる。ただ男だけにそこまではだま[#「だま」に傍点]を出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。
岸には大きな柳がある。・・・(中略)・・・
舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には土筆《つくし》でも生えておりそうな。土堤《どて》の上には柳が多く見える。まばらに、低い家がその間から藁屋根《わらやね》を出し。煤《すす》けた窓を出し。時によると白い家鴨《あひる》を出す。家鴨はがあがあと鳴いて川の中まで出て来る。
柳と柳の間に的※[#「白+樂」、第3水準1-88-69]《てきれき》と光るのは白桃《しろもも》らしい。とんかたんと機《はた》を織る音が聞える。とんかたんの絶間《たえま》から女の唄《うた》が、はああい、いようう——と水の上まで響く。何を唄うのやらいっこう分らぬ。
「先生、わたくしの画《え》をかいて下さいな」と那美さんが注文する。久一さんは兄さんと、しきりに軍隊の話をしている。老人はいつか居眠りをはじめた。
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
春風にそら解《ど》け繻子《しゅす》の銘は何
と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな一筆《ひとふで》がきでは、いけません。もっと私の気象《きしょう》の出るように、丁寧にかいて下さい」
「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ画《え》にならない」
・・・(中略)・・・
女は黙って向《むこう》をむく。川縁《かわべり》はいつか、水とすれすれに低く着いて、見渡す田のもは、一面《いちめん》のげんげんで埋《うずま》っている。鮮《あざ》やかな紅《べに》の滴々《てきてき》が、いつの雨に流されてか、半分|溶《と》けた花の海は霞《かすみ》のなかに果《はて》しなく広がって、見上げる半空《はんくう》には崢※[#「山+榮」、第3水準1-47-92]《そうこう》たる一|峰《ぽう》が半腹《はんぷく》から微《ほの》かに春の雲を吐いている。
「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を舷《ふなばた》から外へ出して、夢のような春の山を指《さ》す。
「天狗岩《てんぐいわ》はあの辺ですか」
「あの翠《みどり》の濃い下の、紫に見える所がありましょう」
・・・(中略)・・・
車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では煙硝《えんしょう》の臭《にお》いの中で、人が働いている。そうして赤いものに滑《すべ》って、むやみに転《ころ》ぶ。空では大きな音がどどんどどんと云う。これからそう云う所へ行く久一さんは車のなかに立って無言のまま、吾々を眺《なが》めている。吾々を山の中から引き出した久一さんと、引き出された吾々の因果《いんが》はここで切れる。もうすでに切れかかっている。車の戸と窓があいているだけで、御互《おたがい》の顔が見えるだけで、行く人と留まる人の間が六尺ばかり隔《へだた》っているだけで、因果はもう切れかかっている。
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を閉《た》てながら、こちらへ走って来る。一つ閉てるごとに、行く人と、送る人の距離はますます遠くなる。やがて久一さんの車室の戸もぴしゃりとしまった。世界はもう二つに為《な》った。老人は思わず窓側《まどぎわ》へ寄る。青年は窓から首を出す。
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、未練《みれん》のない鉄車《てっしゃ》の音がごっとりごっとりと調子を取って動き出す。窓は一つ一つ、余等《われわれ》の前を通る。久一さんの顔が小さくなって、最後の三等列車が、余の前を通るとき、窓の中から、また一つ顔が出た。
茶色のはげた中折帽の下から、髯《ひげ》だらけな野武士が名残《なご》り惜気《おしげ》に首を出した。そのとき、那美さんと野武士は思わず顔を見合《みあわ》せた。鉄車《てっしゃ》はごとりごとりと運転する。野武士の顔はすぐ消えた。那美さんは茫然《ぼうぜん》として、行く汽車を見送る。その茫然のうちには不思議にも今までかつて見た事のない「憐《あわ》れ」が一面に浮いている。
「それだ! それだ! それが出れば画《え》になりますよ」と余は那美さんの肩を叩《たた》きながら小声に云った。余が胸中の画面はこの咄嗟《とっさ》の際に成就《じょうじゅ》したのである。
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補注 「見渡す田のもは、一面《いちめん》のげんげんで埋《うずま》っている。鮮《あざ》やかな紅《べに》の滴々《てきてき》が、いつの雨に流されてか、半分|溶《と》けた花の海は霞《かすみ》のなかに果《はて》しなく広がって、・・」ーーーげんげんというのは恐らく、ゲンゲつまりレンゲの花のことだろう。私の古里ではシロツメクサが畑(空き地)の花だとすれば、レンゲは田圃の花。お祖父ちゃんに叱られることはわかっていても、一面のレンゲの花の中で遊ぶのは嬉しい。ーーーレンゲは暖かい地方の花ということで、北海道では冬越しできず、咲いているのを見ることがない。残念なことだ。
補注 ゲンゲ ウィキペディアによると・・・
ゲンゲ(紫雲英、翹揺 Astragalus sinicus)はマメ科ゲンゲ属に分類される越年草である。中国原産。レンゲソウ(蓮華草)、レンゲ、とも呼ぶ。
ゲンゲ畑
化学肥料が使われるようになるまでは、緑肥(りょくひ = 草肥:くさごえ)および牛の飼料とするため、8-9月頃、稲刈り前の水田の水を抜いて種を蒔き翌春に花を咲かせていた。これはゲンゲ畑と呼ばれ、昭和末頃までの「春の風物詩」であったが減少している。かつて水田に緑肥として栽培され、現在[いつ?]でもその周辺に散見される。 畑は田植えの前に耕し、ゲンゲをそのまま鋤きこんで肥料とした。窒素を固定する(大気中の窒素を取り込んで窒素肥料のようなかたちで蓄える)根粒菌の働きで、ゲンゲの根には球形の根粒がつく。ゲンゲの窒素固定力は強大で10 cmの生育でおおよそ10 アール 1 t の生草重、4-5 kg の窒素を供給し得る。普通15ないし20 cmに成長するからもっと多くなるはずである。
以上、ウィキペディアより引用
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