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六朝期のはげしい権力闘争と阮籍・嵆康・謝礼運の苦難の生涯

2016年1月13日 水曜日 晴れ

白川静 狂字論 文字遊心 平凡社ライブラリー1359 1996年

中国は易姓革命の国といわれるが、六朝期は特に王室の交替のはげしい時期であった。・・・はげしい権力闘争の末に政権の奪取が行われるのであるから、旧王室関係の勢力は、徹底的に排除の対象となる。阮籍も嵆康も、そのような世運のもとに、苦しんだ人である。そしてほとんど、狂疾に近いような奇矯の内に、苦難の生涯を終えた。詩作や清談的な論議が、わずかにその苦悩のはけ口であった。晋宋の際の謝礼運も、そのような宿命を負う人であった。(白川、同書、p79-80)

絶交の書:
嵆康の立場は、阮籍のそれより一そう危疑の甚だしいものであった。嵆康の妻は魏室の女であり、母方にもそういう関係のものがあって、魏とは二重の姻戚という関係であったからである。正始の末年より景元(260から263年)に至る十数年の間に、司馬氏の簒奪の勢いが次第に顕著になり、これを阻止しようとした魏室派の諸人は相ついで殺された。・・・(中略)・・・みな嵆康と親縁の関係があり、その翌々年、嵆康も刑死するのである。(白川、同書、p74)

七賢(補注)の一人である山濤が、吏部侍郎(補注)の職を康に譲ろうとしたとき、康はそれを峻拒するとともに、「絶交の書」を送っている。・・・(中略)・・・この山濤に対する絶交状は、また士人社会に対する絶交状であり、その時代と絶交することを宣言するものである。嵆康が殺されたのは、その翌年であった。嵆康三十九歳。そしてまたその翌年に、阮籍が没している。阮籍は五十四歳。司馬昭が晋公の命を受けた年である。(白川、同書、p75)

儒家のいう名節、その礼教的文化は、今や王権簒奪の理論となり、その手段と化している。しかしその現実を肯定しない限り、生きる道はない。その虚構を潔しとしないならば、阮籍のいう「禽生獣死」、野生のままに生きる外はない。(白川、同書、p76)・・・(中略)・・・(嵆康は)学問が六経(りくけい)の義に奉仕するのは私であり、学問は本来、人間性のうちに存する認識への自由な衝動によるべきものであるとする。・・・それは宋儒の復性説に近い考えかたであるが、当時においては清談に近く、一種の反逆的性格をもっている。しかしこのような礼教主義へのあらわな挑発が、いつまでも許されるはずはない。儒家的礼教主義こそ、この時期の王室存立の基礎理念であったからである。(白川、同書、p77)

もしその礼教的文化が社会の理性であるならば、そのような理性の非理性性、不合理性を告発するほかはない。そしてそれは狂の精神に外ならない。阮籍も嵆康もいわばそのような狂の世界に生を托した人であった。(白川、同書、p79)

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補注 吏部 ウィキペディアによると・・・以下の通り
吏部(りぶ)は六部の一。文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。
後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。
長官として尚書(吏部尚書)が、次官として侍郎が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に吏部・司封(しほう)・司勲(しくん)・考功(こうこう)の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官である郎中(ろうじゅう)と員外郎(いんがいろう)が据えられた。
唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(基督教暦736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。

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補注 https://ja.wikipedia.org/wiki/竹林の七賢 から<以下引用>
竹林の七賢(ちくりんのしちけん)とは、3世紀の中国・魏(三国時代)の時代末期に、酒を飲んだり清談を行なったりと交遊した、下記の七人の称。
阮籍(げんせき)
嵆康(けいこう)
山濤(さんとう)
劉伶(りゅうれい)
阮咸(げんかん)
向秀(しょうしゅう)
王戎(おうじゅう)
阮籍が指導的存在である。その自由奔放な言動は『世説新語』に記されており、後世の人々から敬愛されている。7人が一堂に会したことはないらしく、4世紀頃からそう呼ばれるようになったとされる。隠者と言われることがあるが、多くは役職についており、特に山濤と王戎は宰相格の高官に登っている。日本では竹林の七賢というと、現実離れしたお気楽な発言をする者の代名詞となっているが、当時の陰惨な状況では奔放な言動は死の危険があり、事実、嵆康は讒言により死刑に処せられている。彼らの俗世から超越した言動は、悪意と偽善に満ちた社会に対する慷慨(憤り)と、その意図の韜晦(目くらまし)であり、当時の知識人の精一杯で命がけの批判表明と賞される。
魏から晋の時代には、老荘思想に基づき俗世から超越した談論を行う清談が流行した。『世説新語』には、彼ら以外の多く人物について記されているが、彼ら以後は、社会に対する慷慨の気分は薄れ、詩文も華美な方向に流れた。

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補注 WEB字書では以下の通り https://kotobank.jp/word/六経-148512
六経 りくけい Liu-jing 儒教の基本的な6つの経典。『易』『書』『詩』『礼』『春秋』『楽』の6つの経書。先秦の儒家的知識人が必須の教養としていた詩,書,礼,楽 (文学,政治学,文化的素養,修身を兼ねそなえる4つの学問分野) は,戦国時代から漢代にかけて儒教の正統的文献として次第に経典化されていくが,その過程で儒家はさらに春秋 (歴史学,政治学) ,易 (哲学,政治学,修身) の2教科をつけ加え,この六経を彼らの基本的経典として尊んだ。

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