学ぶこと問うこと

捏造、偽装、換骨奪胎。(第一部)

 

 

捏造、偽装、換骨奪胎。(第一部)

2006年1月17日 B

韓国の医学研究者のヒトESクローン細胞の研究発表論文のなかで、本物だったのは、(クローンイヌといわれていた)イヌだけだった、というニュース(NHK-BS1でのアメリカの放送局)が衝撃的であった。同じ細胞の写真を裏返しに使用するなど、比較的初歩的なテクニックも使われていたとのこと。
上記の韓国の事例に限らず、昨年来、国内外において、医学研究者のデータの捏造(ねつぞう)、マンションの建築設計における耐震強度の偽装、など、「捏造や偽装」が大きな社会問題となっている。今回は、私たちのラボと直接関係する医学研究のデータ捏造に関して、考えてみたい。

第一部 私の今まで歩いてきた道:「捏造」とのすれ違い立体交差。

医学研究において「捏造」がどこまではびこっているかについて。正確には私は知らない。しかし、かなり広くはびこっている事象であるのは、容易に推測される。今まで歩いてきた道を、振り返れば、私の身の回りにも「捏造」の逸話に事欠かない。私のエピソードを語ることによって、若い研究者の方々にとって、若干の参考になるのではなかろうか。
私が研究者として基礎トレーニングを受けたのは、癌研の鶴尾先生のラボであり、古き良き時代であった。細胞培養などのテクニックを飯田さんから教わったが、飯田(斉藤)晴美さんの手技は堅実であり、彼女のデータはすべて何度やっても同じ結果が得られるものであった。習った「方法」は、世界的にエスタブリッシュされたスタンダードな方法ばかりであった。
次に、鶴尾先生のご指示の下、自分一人でアイソトープなどを用いた薬剤の取り込み実験などを始めたが、今度は、激しくデータがばらついて、何度やっても傾向さえつかめなかった。半年ほど続けてみて、この「方法」では、測定不能とあきらめることにした。エスタブリッシュされた方法は、(現在に至っても)世界的に存在せず、そもそも不可能であったのだろう。
その次に、自分から方針を選んで始めたのが、薬剤耐性をコントロールできる機能を持った抗体の作製である。「もの」作りをすることで、よりコンクリートで倒れない研究にしてゆきたいと思った。
鶴尾先生の研究室は、寛容な、良い意味での放任で、実にのんびりしたものであった。この6年の間に、私は、スローペースで、今からは想像も難しいほどの、いっぱいいっぱい、手作りの失敗トライアルをさせてもらえたのである。現在の部員たちが繰り広げる失敗の多くを「深く」理解できるのは、若い頃の私が、同じ失敗をすでに経験して大きく悩んで来た因果である。
癌研時代、2ヶ月間ほど国内留学で名古屋(藤田学園)の黒沢先生のところで抗体の遺伝子工学の手ほどきを受けた。この時、手取り足取りで厳しく教えてくださったのが三浦恵二さんである。三浦さんのような方から、きっちりとテクニックを習えたこと、私が自慢な財産のひとつ。今に至るまで、技術的な基盤として、私の実験の芯を形成している。
以上、長々と書き綴ってきた私の最初の6年間に、「捏造」の影の忍び寄る環境はどこにもなかった。抗体を捏造できるはずもなく、コードする塩基配列も1文字違わず正解となるのは当たり前。ただ、黒沢先生が、アメリカの研究者たちに良く見られるデータの誤りに関して、あんなことやったって「面白くも何ともない」、と話してくださったのを、今でも覚えている。私には黒沢先生が何を意味しているのかつかめず、華やかな競争のサイエンスの世界は、地味な治療の研究をやっている私のような者には縁遠いものに思えた。
ところが、留学先は、アメリカ、ボストンのW研究所。所長はDB先生(ノーベル賞を若くして受賞されている)である。私はMラボだが、DBラボとも、W先生のラボとも同じ3階のフロアで仕事できるのが楽しみであった。私のような留学生は、ノーベル賞学者たちを拝顔すること自体、非常に楽しみにして海を渡ってきたのであり、DB先生が随所に出現する、そのたびに感動を覚えたものである。ところが、数ヶ月して分かったことは、あのようなユダヤ系のお髭で埋もれた顔からは、私には個人を判別できないという事実。私と同じMラボに所属する大学院生(当時は若輩者)のDSのことを、長いことDB大先生と混同していたようである。逸話はさておき、当時はC誌に載ったImanishi-Kari論文の捏造実験データ疑惑がアメリカ議会で問題になっており、DB先生は共著者の一人として、渦中に身を投じて上院で弁論を行うなど、大活躍の時代であった。議会での演説のリプリントもすぐに読めるように、私たちのフロアの文具置き場に山積みされていた。
私が渡米してくる少し前には、アメリカ連邦警察FBIの調査もMITに入ったとのこと。同じフロアのW先生ラボのSちゃんによると、FBIの科学調査というのは、侮りがたい。本物のサイエンティフックな技法を駆使した捜査であり、安直な捏造データが露見しないで見過ごされるような甘いものではなかったとのこと。超遠心機の操作日誌の記載、ノートに貼り付けられたODメータの打ち出し紙の新旧、実験ノートに書き込まれたインクの質と日付との異同など、同時期に実験がなされた同僚たちの実験ノートの日付や記載などとも対照しながら、正確に裏付け捜査が行われていったようだ。
しかし、より問題なのは、Imanishi-Kari論文が、氷山の一角に過ぎないかもしれないこと。世界の医学研究の頂点に君臨してきた感のあるW研究所が、一方では、インチキデータのメッカでもあり得るかもしれない、という疑惑の風聞である。
研究所で毎週行われる5,6グループ合同のフロアミーティングでは、私のようにぼろぼろのデータを苦しそうに発表する者も確かに多くいる一方で、次から次へと華々しいデータを発表するエリートたちの競演が見られる。Gn君のようにスタンフォードのノーベル賞学者Hzのところで博士号を取得してから、MITのノーベル賞学者DBのところでポスドクという具合に、ノーベル賞街道まっしぐらの経歴の若者も多い。確かに彼等は勘所良く、よって、仕事の進め方もうまい。アメリカ人としての人柄も非の打ち所無く、よって、人脈も豪華である。アメリカという国が、がっちりした学歴サークル社会だという一面を持っていること、このときはじめて教わった。このような華やかなサークルに所属するポスドクたちから、素晴らしいデータが発信され、割とすぐに、独立したポジションへと栄転してゆく。仕事の質の評価に応じて、良いポジションが用意される。原因と結果が分かりやすい。先日フロアミーティングで凄いデータを出したポスドクが、次の月にはC誌(当時はMITの構内に出版オフィスがあり、まあ、たとえて言えば、MITにとってのC誌は、インパクトファクターこそ違え、札幌医科大学にとっての札幌医学雑誌のようなものである)のファーストオーサーになっており、年明け早々には**大の独立ポジションへ栄転が決まっている、というスムーズさである。チャンスが与えられ、チャンスを生かした人には、さらにもっと大きなチャンスが与えられる。アメリカンな人生ゲームの華々しさが、そこに展開する。
しかし、同じフロア(3階)の友人が密かに私に話すことには、表面の華々しさの裏側には、多くの虚偽が隠されているという。フロアミーティングで素敵な仕事を発表し、Hi大学に栄転してゆく4階の某ポスドクの話がでた際、彼が言うには、「同じグループの連中はみんな、ヤツのノートを見ればすべてがわかるぞって言っている」、とのこと。フロアミーティングでの彼の発表は、ノートのデータに裏付けられていない。ウソのデータで飾った論文・得たポジションだ、というわけである。「ヤツの免疫染色データには、コントロールの染色実験が記載されていない。」という。有名大学の出身者でもない某は、長年の失敗の末、ついに一発逆転劇を仕組んだ、というわけだ。私としては、陰でそんな言い方で批判をするのは、フェアな態度でないと感じた。が、友人にとっては、特にあげつらうほどのことはない、そんなデータ操作などはここでは日常茶飯事に横行している、といった感覚である。私自身は、某ポスドクの友人でもなければ、ノートを見せてもらったわけでもないので、確認はできない。しかし、当時、疑惑のデータないし疑惑有りとする多くの事例・風説が、さまざま、非常に頻繁に飛び交っていたことは事実だ。
W研究所ほどのところともなれば、普通のデータでは、ボスは見向きもしてくれない。彼を、つまり世の中を、あっと驚かすほどのすごいデータでないと、相手にされない。そのようなデータを生み出さない限り、この「悲惨な境遇」から抜け出すこともできず、そのまま飼い殺しにされ、腐っていってしまう。そのようにして、追いつめられ、思い詰めた末に、ポスドクや大学院生は、一発逆転の危険な賭に打って出るのだろう。「データの捏造」も局面打開の一つの手段ではある。彼等にとって、良いデータを一つ出せば、独立ポジションへの栄転とそれに伴う輝かしい未来が開けるのであるから、非常に大きな誘惑に満ちている環境であったろう。

私はデータの捏造には手を染めなかった。しかし、私の今まで歩いてきた道のなかで、ボストンでの2年間は「捏造」とのニアミス、すれ違い立体交差の危ない世界を通っていたように思う。

2年間のボストン留学時代は、科学者としての私にとって、非常に惨めな時期であった。そのような抜け道のない No way out の時代に、私が「捏造」の誘惑に負けて、堕ちてゆくことから免れたのは、一つには、私が元来不器用で捏造のチャンスも何もなかったせいでもある。が、もう一つには、私のキャリアが、サイエンティストとしてスタートしたのではないこともあろう。24歳の時、一人の患者を診る一人の臨床医として、何とか「今は救えない一人の患者」を、私の研究によって救うことができたらそれで本望、という出発点から研究が始まった。よって、現状の惨めさをどんなに簡単に「改善」できるかに見えても、「捏造データ」を自分がひねり出すこと自体、現状の惨めさをさらにさらに惨めにしてゆく行いでしかない、ということが分かっていたからである。「捏造データ」では患者は治せない、自明である。
当時の私を支え慰めてくれたのは、このホームページでも紹介したように、三面の阿修羅像の愁いであり、賢治の詩であり、シューベルトのピアノ曲であり、ベートーベンの弦楽四重奏であり、モーツァルトやワグナーの歌劇であり、ニューイングランドの湖水の上を移りゆく季節の表情であったり、私と同じような不遇を嘆いて泣きそうになって相談してくる親友のMSだったり、いつも陽気でやさしいCGだったり、自分では決して実験しないかわりにノーベル賞級のアイデアをどんどん惜しげもなく教えてくれるDSだったり、、、
と、さまざま私を慰めてくれた思い出たちを書き出すと、きりがなくなってしまう。機関銃の弾のように次から次へと出てきて、あと500項目ぐらいは思い出せそうで、突然、漫才の落ちになってしまいそう。つまり、研究の上でどんなに不遇な状況があろうと、それとは関わりなく、人生、極めて豊かに過ごせるというものだ。

次回に続く。

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以上、2006年1月17日 B 付けWEBページより再掲

 

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