捏造、偽装、換骨奪胎。(第二部)
2006年1月17日 C
第二部は、「世の中の(世間の)捏造データ」について。
(前回からの続き) そんな風にして、ぼろぼろになって、あこがれのボストン、W研究所から、日本に帰ってきた。発表論文は、その間、ゼロ。その数字がすべてを語る。これが影響して、日本に帰っても3年ほどは論文を出せず、計5年にもわたって、苦しい時期であった。ただ、そのような時期を通じて、自分自身のサイエンスのスタイルを十分に形成することができたため、みずからデータを「捏造」する、という危機はあり得なかったし、明確に、今後も起こりえない。よって、第二部として、以下に考察したいのは、世の中の(世間の)捏造データと、私とのかかわりである。これが、また、厳しい現実だったのである。
その1 医学研究のデータ捏造がどうして悪いか、という問題。
これに関しては、マンションの設計における耐震強度の偽装にたとえるのが、ぴったりかもしれない。医学研究の蓄積も、マンションなどの建築と同じく、家族や友人とともに享受し、そして子孫に受け継ぐべき一つの社会資本と考えて良い。正確な実験結果に基づかないごまかしの医学研究データに準拠して診断や治療の研究を進めるのは、耐震強度が偽装されたマンションに住み続けるようなもので、危ない。うわべは安全そうでも、本当に地震がくれば、崩れる。紙に書いてあるデータや設計図が崩れるだけなら、だれにも被害は及ばない。が、もし大勢の人が住んでいたとしたら、あるいは、大勢の人がその診断や治療を受けたとしたなら、多くの人が苦しみ、あるいは、死ぬ。そして、それは決して他人事ではない。自分や自分の家族、親しい友、かもしれない。
その2 偽装のからくり。
私自身の研究経験から言えば、私たちのフィールドで重要な論文発表に記載された実験を、自分たちの手で追加試験(追試)してみて、同じ結果がどうしてもでてこないこと(再現不能)を、今までしばしば経験してきた。ずっとめずらしくはあるが、自分のところの旧ポスドクのデータに関して、引き継いだ実験者が替わって実験してみると再現できないこともあった。
もちろん、方法が異なっている場合も考えられるので、元々の実験を行った研究者に連絡を取り、実験方法の詳細をお教えいただき、コントロールとなる材料その他提供いただき、綿密に実験を繰り返す。この段階で「うそ」が判明する場合もある。たとえば、送ってきてくれたコントロールサンプルの塩基配列が全く別物であることが、私たちの塩基配列決定で判明したこともある。それを相手側に連絡して、本物を送ってもらえるように再三頼んでも、そのまま音信不通になってしまったりすると、先に進めない私たちは窮地に陥る。「研究者の仁義」に悖(もと)るやり方ではあるが、一度ならず経験した。方法を精確に教えてくださいと謙虚にお願いしても、教科書に載っているような一般的な返事を返してくれるだけだったこともある。誠意無く、のらくらと逃げられる。忙しすぎるか、逆に、家族と長いバカンスに出かけていました、ということで忘れられて、返事をもらえない。
それぞれのケースについて、常に曖昧な部分が残されており、絶対的に捏造だと決めつけることはできない。しかし、私たちの側でも追試しながら失敗を重ねていくうちに、実験の本質を深く理解できるようになるため、少なくとも「偽装のからくり」が飲み込めてくることが多い。
たとえば、学会場などで出くわした機会につかまえて、よくよく話を聞けば、何回か実験を行ったうちの、あるいは何百もの試作品をトライしたうちの、たまたま一度の「うまくいった」データを載せただけ、つまり、もともと本人でさえ再現できないデータを載せてきた、という事実が見え隠れしたことも多い。これを「一回こっきり」タイプの偽装と名付けたい。一回しか実験を行わない「知らぬが仏、怠惰型」タイプと、何回でも実験を行っておのれの欲するデータを抽出する「信念努力型」タイプなど、「一回こっきり」タイプの中でも各種の細目分類が可能であろう。
別の事例では、私たちが10以上の細胞株で追試してみて、N誌とC誌の連続論文として載っている2,3の細胞株でだけ「論文で結論している真実」が真実である(論文のデータ自体は再現可能である)ことに気づいたこともある。私たちが10の細胞で行った実験結果を詳細に記載して発表しようとしても、載せてくれる雑誌はインパクトファクターが1,2の雑誌であり、換言すれば、だれも読んではくれない。(インパクトファクターの1,2に関しては、私たち自身がその論文をサイテーションして次の論文を書き、何とか「インパクト毀損罪」の償いをするしかないのである。)この場合、著者たちは、私たちよりもずっと多くの細胞株を用いて実験したはずである。そして、構想力豊かに、データを「ものにしよう」と考えたに違いない。2,3の細胞株のデータが抽出され、ジグソーパズルのミッシングリンクを埋める興味深いストーリーが組み立てられ、N誌やS誌の論文にまとめ上げて新地平を切り開いたわけであり、私たちよりも努力も想像力も何倍も逞しく、その意味では尊敬に値するとも言える。もちろん、私たちのような「治療の研究者」が患者の臨床に応用しようと追試したとたんに、化けの皮がはがれてきてしまう。このタイプの捏造も多い。これを、「換骨奪胎」タイプの偽装と称することとしたい。前述の500もの試作品(プラスミドによる塩基配列変異体など)のうち、やっとひとつがうまくいった、という論文なども、書きようによっては「換骨奪胎」タイプの偽装に容易に化けるであろう。
最も安直で、よって頻繁に遭遇するのは、データの創作や書き換えである。これを「イン・シリコ創作型」タイプと命名しよう。亜型として「フォトショップ技巧型」その他、さまざまなグラフやお絵かきソフトの名前の細分類がなされよう。写真をひっくり返すなどの安直なものから、コンピュータIT関連の業界に転職できるほどの高度の技巧を駆使したものまで。
「一回こっきりタイプ」、「換骨奪胎タイプ」、「イン・シリコ創作タイプ」、すべてに共通するのは、実験ノートが偽装解明の決め手になることである。一回しか「成功した」データが出てこなかったり、そもそも生データが存在しなかったりするだから、頑張った人には気の毒だけど、実験ノートを見られればどうやったってすぐにばれる。よって、このタイプの偽造に手を染めた者は、ノートを他人に見られるのを嫌う。ラボに残しておくべきノートを留学先に持ち去るし、司直の捜索の手が伸びてくれば「ノート紛失」、ということになるのである。
「イン・シリコ創作型」とほぼ同系列であるにもかかわらず、極めて判定困難なものに、「仕組み込み実験型」がある。あらかじめシナリオがあれば、出るはずのデータを「出す」ことは、安直にできる。たとえば、20の細胞株から同じデータが出ると想定されるときに、1,2の細胞株だけで20回分の実験をまとめてやって20分の1の労力で安直にデータを得る。すべてぴたりとそろったデータを出してくれば、「ありえない」故に偽装を見抜ける。が、もし乱数表を使うなど適当にデータ操作が加われば、偽装を見分けられない。「仕組み込み実験」は、動物実験など複雑なものでも、いとも簡単に構築可能である。たとえば、治療効果が期待できる方のラットやマウスに、腫瘍や毒物を少なく投与することにより、「良く効くはずだけれどもなぜか効かない治療薬」がぴたりと効き始める。この「仕組み込み実験」タイプの捏造では、頭の良い実験者が実験の最初から実験ノートも巧妙に偽装した場合、FBIの特捜部でも偽装を見抜けまい。「仕組み込み実験」のからくりを見抜くには、手を替えて追試を行うしかない。よって、「仕組み込み実験」を行う実験者は、他人に追試をされることを嫌う性癖が強い。彼は、他人に方法を教えたがらないし、教えても不親切で、相手に失敗させ、再現を許さない。難しいコツがあることをほのめかし、カリスマになりすます場合もある。彼だけが実験に成功する理由を、ブラジルのエースストライカーのフリーキックのように、名人芸として神秘化するのである。この手の輩には気をつけなくてはならない。ブラジルのフォワードだけが入れられるシュートのような方法など、サイエンスの世界には存在しないのである。
その3 「トカゲしっぽ切りタイプ」のボスは許せない。
上記の分類法(*注、参照)からはずれるが、「トカゲしっぽ切りタイプ」のラボから生まれる偽装も多い。ボスの教唆により、手下がデータを捏造するのである。ボスは、構想力豊かで、実験結果と解釈のストーリーができあがっており、部員は、ストーリーを構成するデータを出してくれさえすればよい。だから、こんな簡単なことはないだろう、さあ、どんどんやろう、というわけだ。しかし、事実は小説よりも奇なり。実験をしてみるとちっともうまくいかないことの方がむしろ多いのだ。ボスが生データを見ながら部員といっしょに親身になって打開に当たれば、捏造は生じない。が、部下の努力が足りないなどの単なる叱咤激励だけだと、捏造の危険が助長されるのである。このタイプの偽装の場合、ボスは実験方法の詳細に立ち入らないスタンスをとっていることが多い。ボスはしっぽをつかまえられたら、すべてを実際に手を下した部下の責任として、部下を切って捨て、自分はいつでも逃げる用意ができている。このタイプのボスには実力者も多く、手下は危険も多いが、リターンがより多い場合もしばしばである。つまり、頭もしっぽもどっちも悪いのであるが、強いて言うなら、私としては、ボスの方がずっと悪いと思う。ボスの理論では、悪いのは手下であり、自分は捏造を一度たりとも指示した覚えはないという。ボスにとっては、リスクは極小、リターンは手下のそれ以上に大きい。これは、フェアではない。「トカゲしっぽ切り」は、断じて許せない、と私は思う。
(*注)研究の形式による分類法では、「トカゲしっぽ切りタイプ」は、「劇場型」の研究スタイルから派生するさまざまの結果のうちの一亜型である。「劇場型」では、監督の総帥のもとに、脚本、助監督、主演、助演、大道具、小道具、照明、音楽、音響、広報、その他、さまざまの役割の人々が助け合い複雑に絡み合ってストーリー(架空の物語)が展開する。「劇場型」の亜型として、「ドキュメンタリー映画製作型」がある。ドキュメンタリー作製の監督は、すでにストーリーを持って現場に到着するのであり、助監督以下、現実を細切れに切り取ってつぎはぎしてゆくのである。「真実」を伝えるドキュメンタリーとなるか、「真実」と遠い現実となるか、監督をはじめチームの力量が問われる。
その4 捏造は、追試者にとって大きなダメージ。
私の今までの20数年の研究を振り返れば、「偽装(ただし、presumed guilty ではあるが)」に惑わされ、それを基盤として実験計画を進めたこと、そして結果として「再現不能」であったこと、決して稀ではなかった。それぞれの失敗が、実に、研究者としての私にとってダメージが大きかった。非常に大きな時間と労力を無駄にしてしまったと悔やまれる。打ち込んで3年5年と続けてきた仕事が最終的に「再現不能」の基盤からスタートしていたと気づいた時点では、もうこの地点まで来てしまっては立ち上がれない、研究者としては引退も考えなければならない、と思い詰めたこともある(すぐに忘れてしまうのではあるが)。
日々を他人のデータの追試に費やし、結果、失敗と失意のうちに一生を過ごすのでは、研究者として成仏できそうにない。深い諦観と悟りの境地に到達しつつある私たちのグループ。故に、現在の私たちは、よそのラボのデータには全く準拠しない、そんな仕事を目指すことにしている。(論文読みの勉強をからっきし必要としないので、極めて健全な日々が過ごせるという余得もある。オススメである。)
その5 データの捏造をいかに防ぐか、その対策を考えてみたい。
現在、私の仕事では、「捏造」データの製造される危険はきわめて少ない。先月のラボでの年末打ち上げのパーティの時にも話した。 1)当部の体制は、できるだけ実験の生データを十分にディスカッションする、特に、データの細かいところまでうるさくチェックすることを旨としている。実験ノートの記載指針も明文化し、厳しく言っている。「この目で見、この指で触れたもの以外は、私は信じない」というマタイの言葉の信奉者である。ボルティモア先生流に言うなら、“Show me the data!”「データを見るまで、信じるもんか」、という言葉となる。 2)当部では部員には実験の失敗をむしろ奨励している。よって、失敗を一人で隠しておく必然性がない。喜んでふれて回って欲しい。二度と失敗しなければよいのだから。「しっぱいいっぱい、でも、しっぱいいっかい」は私が大学院講義の時に使った標語。 3)きっとこんなストーリーになるはず、というプランをあらかじめ立てて、実験者に押しつけたりはしない。いつも「どっちになるかわからないから、まあ、やってみよう。ひょっとするとすごくおもしろいかも、、、」という曖昧模糊たる実験しか計画しないように心がけている。うまくいくとわかっている実験なんか計画しても面白くも何ともない。 4)すばらしいデータが出てきたときは、とりあえず、私はすっかり信じることにしている。そして、素直に大いに喜ぶのである。しかし、必ず同じ実験を複数回繰り返す。できれば手を替えても同じ結果が出ることを示す。重要なのは、独立した別の方法で、必ず「ウラ」を取ること。たとえば、免疫沈降産物の抗体によるウェスタンブロット解析と、免疫沈降産物の質量分析で同じ結果が得られても、ウラを取ったことにはならない。一方、cDNAの発現ベクターのトランスフェクションでポジティブな結果が得られれば、ウラが取れたことになる。(それでも、場合によっては、保留事項が残ることもある。)「間違いデータ」ないし「捏造」データの場合は、方法を変えれば、同じ結果が出ることは無い。「捏造」データの場合は、クレバーな人が多いので、再現良く同じ結果を出してくるかもしれないが、遅かれ早かれ、私のこのような愚直な実験の繰り返しやウラ取りの提案を否定し、「すばらしいデータ」をなぜかほったらかして、私のラボを去ってゆくだろう。クレバーな人には、ばかばかしくて付き合いきれないのである。彼らが欲しているのは、手っ取り早い成果でしかない。このことに気づくまでには、どうしてあんなに私が嫌われなければならないのか、わからずに悩んだ。
その6 「モノ」が多くを語る。
しかし、嘘つきはどこにでもいるし、さまざまな誘惑もあり得るので、たとえ上記のような気風が存在するラボであったとしても、捏造データがでてこないという保証は無い。捏造阻止の秘訣は、単純だ。実に、私たちのラボでは、いつもきわめてコンクリートな「モノ」作りの実験だけを行うようにつとめている。現在は、モノクローナル抗体作りを中心に頑張っているが、このような「モノ」作りの場合、捏造で無から有を作り出すことは、きっと、きわめて難しい。モノが多くを語ってくれる。すぐに、つべこべ言わずにモノを見せろ、と、なる。モノがあって、単純で、(当部である程度修行を積んだ人なら)だれでもすぐに追試できるような明快なことしか行わない。ことメソッドに関しては、職人芸などはサイエンスの世界に無縁のはずだ。私たちのラボのような診断や治療の研究では、そのようなコンクリートで、鉄筋がいっぱい詰まっているような「モノ」を伴う実験研究でないと、所詮、臨床研究に耐えられない。そんな感覚から、私たちは20年以上も飽きもせずにモノ作りをトライし続けているのである。
その7 「捏造」の誘惑に直面した研究者へのアドバイス:
さて、次に、「捏造」の誘惑に抗しきれない状況にある迷える医学研究者へのアドバイスをしたい。といっても、私のようにN誌・S誌にも論文を通すことのできない愚禿研究者からのアドバイスでは、「上を目指す」研究者にとっては何の効能もないかもしれない。むしろ、私のごとく成果に恵まれない研究者を他山の石として、捏造に励む若手研究者もいるかもしれない。残念ながら、一理あるかもしれない。私の場合、みんなで参加するジグソーパズルには、ことさら背を向けてきた。よって、有名雑誌から「待望のミッシングリンクついに見つかる!」と喜ばれることも無く、一方で、ジグソーパズルの駒を捜す代わりにズルして一つ創作する動機もチャンスも端から存在しなかったのである。15年来ラボに飾ってきた以下の言葉をときどき見つめながら、いろいろな失敗から起きあがろうとしてきた:“I want to know God’s thoughts. The rest are details.” 研究者にとって本当に大切なものと、常に真正面から向き合って生きてゆこう。
その8 間違いは、誰にでも、いつでもある。
それから、もう一つ。捏造とは明確に区別すべき「間違い」について。少年時代に読んだ「のらくろ」の漫画に「まちがいと****はどこにでもある」ということばがあった。われわれ研究者、のらくろよりは若干よけいに注意深く、のらくろと同じぐらい正直に頑張ってきていても、やっぱりそれでもまちがいや失敗は多いのである。研究において自らの重大な間違いに気づいたときは、それを世に明らかとし、すぐに改める、その姿勢を決して見失わないようにしよう。間違うことは良い。しかし、間違いに気づいた時、間違いをウソで塗り込めようとしたとたんに、それは「間違い」ではなく、「捏造、偽装、換骨奪胎」になってしまう。どんな偉い先生でも間違いがない訳がない。間違いが恥ずかしいと思うことは、間違っている。もし、そんなサイエンスの分野があるとしたら、すでに、全く魅力のない、自浄不能の業界である。私は、もし、研究成果において自らの間違いに気づいたときには、躊躇なく、間違っていたと皆の前で認めることができる。「裸の王様」だったことをすぐさま認めること、恥ずかしくも何ともない。もちろん、良心の問題でも倫理の問題でもない。ただ単に、裸は、裸。ウソデータなど、全く価値がなく、ウソを重ねてまで守らなければならない何物も、その価値を認められないからである。
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以上、2006年1月17日 C 付けのWEBページより再掲
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