ウィキペディアによると・・・「ヨハン3世」
ヨハン3世は、ポーランド王ジグムント1世の娘カタジナと結婚して一人息子ジギスムントを得る。これは当時リヴォニア戦争で、ロシアのバルト海進出を阻むため、大国であったポーランド王国と同盟を結ぶ政治的な理由もあったともされる。そしてフィンランドのトゥルク城に居を定め、バルト海沿岸に影響力を及ぼした。1583年にリヴォニア戦争は終結し、リヴォニアから撤退する換わりにエストニアを確保する。
ヨハン3世はポーランド王女と結婚していたためか、カトリックに好意的で、長男のジギスムント(後のポーランド王兼スウェーデン王ジグムント3世)をカトリック教徒として育て、幼い頃から成人するまでポーランドに住まわせポーランドの教育を受けさせている。しかし国益を考え、自身はカトリックへの改宗をせず、スウェーデン国内に影響力を持つルター派との対立を避けている。1581年、フィンランドの貴族層からの要請を受け、フィンランド大公が創設された。
ヨハン3世はスウェーデンのために尽くし、教会改革や、財政改革を行なった。さらにデンマークとの北方七年戦争を引き分けに持ち込み、リヴォニア戦争ではロシアを撃破し、フィンランドの国境をさらに東方に広げる事に成功した(しかし1590年からロシア・スウェーデン戦争が開始される)。
その間に息子ジギスムント(ポーランド王としては、ジグムント3世)はポーランド王に迎えられた(1587年)。ポーランド・ヴァーサ朝の開始である。しかしジギスムントはカトリックとして育てられたため、ポーランド・スウェーデン同君連合国家の成立についてはスウェーデン上層部の間に不満が高まった。ヴァーサ朝に亀裂が走ったのである。
なお、当時のポーランドは貴族の20%以上がプロテスタントで、さらにプロイセン地方の住民の多くがルター派プロテスタントが大半だったため、ポーランドでさえもまったくのカトリック国家というわけではなかったが、スウェーデン貴族はスウェーデン・ポーランド同君連合でスウェーデンの君主がカトリック教徒であることでスウェーデンが当時の大国ポーランドの支配下におかれるのではないかと懸念したのである。
ヨハン3世は、この問題を解決しないまま、1592年に世を去った。この間の摂政は弟のカールに任された。
しかしヨハン3世の息子はカトリックのまま王位を継承し、スウェーデン王ジギスムントと名乗った。このため、後にスウェーデンの王位請求権問題が発生するのである(1660年のオリヴァ条約によって消滅)。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>
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補註:
スウェーデンのヴァーサ王朝は、以下の通り:

① グスタフ1世(スウェーデン語: Gustav I、グスタフ・エリクソン・ヴァーサ、スウェーデン語: Gustav Eriksson Vasa、 1496年5月12日 – 1560年9月29日)は、スウェーデン国王(在位:1523年6月6日 – 1560年9月29日)。ヴァーサ王朝の祖。
ヴァーサ家 |
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② エリク14世(Erik XIV, 1533年12月13日 – 1577年2月26日)はスウェーデン・ヴァーサ王朝の第2代国王(在位:1560年 – 1568年)。グスタフ1世と王妃カタリーナの子。スウェーデン=フィンランドの君主であるが、フィンランドの統治者は弟のフィンランド公ヨハン(後のヨハン3世)であった。
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③ ヨハン3世(Johan III、1537年12月20日 – 1592年11月27日)は、スウェーデン・ヴァーサ王朝第3代国王(在位:1568年 – 1592年)およびフィンランド大公(在位:1581年 – 1592年)。グスタフ1世と2度目の王妃マルガレータの長男。
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④ スウェーデン王シギスムンド(=ポーランド王ジグムント3世・在位1587〜)
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⑤ カール9世
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⑥ グスタフ2世アドルフ
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⑥ クリスティーナ
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