2021年5月30日 日曜日 曇りのち夕方から雨
五味文彦 日本中世史① 中世社会のはじまり 岩波新書1579 2016年
・・『風姿花伝』によれば、観阿弥が「我が風体の能」として指摘したのは、近代の田楽の聖として評判が高い本座の一忠(いっちゅう)の「鬼神の物まね、怒れるよそほひ、洩れたる風体なかりけるところ」の芸であり、さらに大和猿楽の「笛の上手」名生(めいせい)からも学んだように、広く芸能の良質な箇所を吸収し、能を芸術として高めていった。
文和四年(一三五五)四月、醍醐寺の鎮守・清滝宮の祭礼で大和猿楽の演能が、その六月には、京の新熊野神社の六月会でも猿楽・田楽があって、これを守護大名の六角氏頼や佐々木道誉らが見物している。・・そうしたなかで佐々木道誉が観阿弥父子を後援することになった。世阿弥の次男秦元能(もとよし)の『猿楽談儀』には、道誉と海老名の南無阿弥陀仏が田楽の一忠(いっちゅう)の芸を世阿弥に語ったことが見え、さらに「観阿、今熊野の能の時、猿楽と云事をば、将軍家御覧初めらるる也。世子(世阿弥)十二の年也」・・とあって、世阿弥は十二歳の時に将軍足利義満に認められたという。(五味、同書、p227-228)
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