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日本民族の宇宙観・自然観は、森羅万象全てが一体であるとする考えだ。

2025年1月23日 木曜日 曇り

荒谷卓 日本の戦闘者 現代のサムライは決してグローバリズムに屈せず ワニ・プラス 2024年6月5日初版発行

欧米人の「死」の捉え方

 西欧のキリスト教全盛時代、ゴッドと人間は一対一の関係なので、人間個人の存在をゴッド以外の多の存在から完全に峻別して考えた。  個人は死んでもその魂が永遠に個人であり続けるとして死後の救済をゴッドにすがった。つまり、「死」は「個」にとっての神の救済の審判が下される極めて受動的な「死」であり、死後に及んでも自己の救済以外の積極的な意味を持たない。  また、宗教的教義から解放された近代以降は、個人の存在を他から独立した絶対的価値としたものだから、「死」は個人にとって世界の終わりのようなものである。だからみんな「死んだら終わりでしょ!」などと当たり前のように言う。これが死を極度に恐れる理由となる。

日本人の「死」の捉え方

 日本文化の「死」の考え方は、これとは異なる。日本民族の宇宙観・自然観は、森羅万象全てが一体であるとする考えだ。ゴッドのような単体で完全な神などは想定しない。宇宙全体が一つの完全体であって、宇宙を構成する一つ一つは不完全なものである。どんな神ですら一柱で完全な神などいない。したがって、人間個人が完全であることなどあろうはずもないし、他から完全に独立しているということはあり得ない。身体をつくる物質は、地球自然界で循環再生されるものであり、生命エネルギーは宇宙空間の中で生成され保存され循環されるものである。空間的な一体構造というだけではなく、過去から未来まで時間的にも一体である。つまり、私たちの生命エネルギーは過去から未来へと繋がるエネルギー循環の今の状態である。だから人の「死」は、次なる「生」への循環の一過程に過ぎない。そして「生」こそ宇宙全体のエネルギーを生成する貴重な時間であり、人が生きる意味は全体への貢献にある。人々が和して世のため人のため「生」を全うするのが日本民族の生命観である。だから、国の名を大きく和する「大和」とした。

 吉田松陰が、このことを次のように言い表している。

<世には身生きて心死するものあり。

身亡びて魂存するものあり。

心死さば生も益なし、魂存せば亡も損なきなり。

死して不朽の見込みあらばいつにても死ぬべし。

生きて大業の見込みあらばいつにても生くべし。>

 我が身、我がこと、我が財産のために生きてる奴は死ぬことが怖いだろう。自分が生きてきた意味が死によって全て無に帰すわけだから。このような奴は、ほかがどうなろうと自分のことしか考えない。人類全体や自然全体から見ると“癌細胞”だ。

 人の和や自然との共生にとどまらず、宇宙自然の成長に貢献する生き方こそ本来の「生」の意義。世のため人のため全力で生きた上での「死」は、永遠なる魂の主体性の発露である。  そうやって、日本人は魂を繋いできた。魂の連続性、志を継ぐ者を信じて「死」をも惜しまず全身全霊をもって「生」を全うして国を守ってきた。だから、死を恐れるよりも生を全うすることを大事にするんだ。

 そういう俺たち日本人のご先祖様に「ご苦労様でした。その魂は私が継承しております。何もご心配いりません。どうぞ安らかに御覧あれ」と、毎日毎日、祈り(意を宣り)たいものだ。(荒谷、同書、p31-33)

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