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法然の専修と大らかさ

2018年2月20日 火曜日 曇りときどき雪

阿満利麿 法然入門 ちくま新書918 2011年

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 どうして矛盾する説法ができたのか
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 では法然がこのように、念仏の仕方について相矛盾するような説き方(=対機説法)ができたのはどうしてなのか。
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 念仏の二重性
 それは、念仏には私が念仏するという一面と、他方、阿弥陀仏が私のなかではたらいているという一面があるということによる。(阿満、同書、p129)

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・・法然がひたすら、一向に、異事を願わず、もっぱら念仏に励むのは、念仏によって浄土に生まれて、さらに仏になり、さらに慈悲を自在に行使できるようになることを目指している、ということだ
 そうでなければ、ひたすら念仏するとか、一向に念仏するといっても、どれだけでは偏執のそしりをまぬがれないであろう。偏執とも思われるような決断の持続のさきには、慈悲の実践という目標があるのだ。この目標を忘れては、専修念仏という「専修」は独断と偏見の代名詞となるだけであろう。(阿満、同書、p183)

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選択本願念仏集・法然の教え

2018年2月17日 土曜日 雪

法然 選択本願念仏集・法然の教え 阿満利麿・訳・解説 角川ソフィア文庫 平成19年(2007年)

法然が本願念仏に一筋に帰依したのは、単なる思いつきではない。自らが生きる現代という時代と、そこに生きる人間の質を厳格に問いただした上での結論であった。・・・(中略)・・・その客観的状況とは一言でいえば、末世という時代であり、凡夫という人間のあり方にある。・・・(中略)・・・時代の深刻さと人間への果てしない絶望を見据えるとき、阿弥陀仏の本願のほかに、残された道が見いだせるであろうか。(阿満、同書・解説、p268-269)

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法然の独立不羈・専修念仏という教え

2018年2月15日 木曜日 雪

源空・念仏

 ーー人は、欺き、欺かれ、傷つけ、傷つけられてまで、この世に生きながらえる必要があるのだろうか。この世こそ、修羅場であり、地獄だ。
 源空は、自分を苦しめている心の影の核心に迫って行った。(町田、同書、p148)

一か月にわたる好相行:
 ・・無事、行を終えた源空は、阿弥陀堂を出た。堂から一歩出たとたん、山の緑が眼に飛びこんできた。そこに存在する、すべてのいのちが眩しかった。一本の野草、空に舞う鳥の一羽がまでが、同じ<いのち>を喜び、歌っているようにも感じられ、足元から全身を突き抜けるように、深い喜びが沸き上がってきた。(町田、同書、p156)

 観無量寿経・「王舎城の悲劇」
 ーー私という存在は、過去久遠劫(くおんごう)来の罪を背負っているだけでなく、時時刻刻に新たな罪を犯している良心という父を殺し、慈愛という母を殺しているのだ。その途方もない罪でさえも、一念十念の念仏によって償われる。そう釈尊は、教えられたのだ。
 それまでも源空は、観仏の体験を味わっていたものの、念仏にはさらに深い世界が広がっていることに、このときようやく気づいたのだった。(町田、同書、p162)

定善観の落とし穴は、幻覚にあることを、彼は「観経」を読んだときから、わきまえていた。しかしそのころには、寺の背後にある山道をたどり、谷川に至っても、樹木が宝樹に見えたり、谷の水が瑠璃色に見えたりすることが、たびたび起きた。(町田、同書、p169)

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2018年2月16日 金曜日 曇り

 「畏れながら、宗派に優劣があるわけでなく、人がどう仏法を理解するか、その深さにこそ違いがあると存じます」
 すると空海は何も言わず、法然に近づいてきて、彼の肩を抱いてから静かに消えた。
 法然は、何事においても通説をそのまま受け入れるということはなく、異論の人だった。
 弟子たちにも、学問の仕方について、つねに注意していたことがある。
「経典を学ぶときは、原典だけではなく、注釈書を読むことも怠ってはならない。でないと、経典理解に偏りが生まれる。
 人は万巻の書を読み、知識を広げることが大切だが、決して著者の言っていることを鵜呑みにしてはならぬ。つねに古人の言説が正しいとは限らぬからだ。まちがいがあると判断するのなら、正々堂々と反論するとよい。
 そのように自分で考え抜き、自分の言葉で表現していってこそ、学問を積むというにふさわしい」
 若いときから法然には、独立不羈の気性があったが、それは学問の姿勢にも貫かれていた。そもそも専修念仏という教えも、それまでの念仏信仰と似て非なるものだったが、それも彼の独創的なものの考え方によるところが大であった。(町田、同書、p274)

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2018年2月16日 金曜日 曇り

大原談義
・・しかしながら、この末法の世にあって、最勝の教えを選ぶことよりも、自らの資質を素直に判断し、おのれに最もふさわしい教えを選び取るより、道はござらんように思います。(町田、法然の涙、p277)

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九条兼実
・・名号を称えるには、三つの心が欠かせません。
・・深い心、まことの心、そして往生を願う心のことです。(町田、同書、p282)

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源空・黒谷の試練と保元の乱

2018年2月15日 木曜日 雪

町田宗鳳 法然の涙 講談社 2010年

源空・黒谷の試練と保元の乱:

いいえ、とんでもありません。これだけ世が乱れ、人々が苦しんでいるのに、何もできないでいるおのれを歯がゆく思っております。私はあまねく仏典を学び、誰もが漏れなく救われる仏の道を見つけたいと願っています。(町田、同書、p137)

・・西金堂(興福寺)の阿修羅像に見入っているうちに、源空の眦(まなじり)から一筋の涙が流れ落ちた。
ーーこの何かを必死に見つめる眼は、まさに自分が菩提を求めて、いまだそれを手に入れることのできない悲壮な自分の眼ではないか。
 そこに立っているのは、阿修羅と化した自分の姿であった。どれほど、その前に立ち尽くしただろう。(町田、同書、p139)

・・源空は今まで経蔵に籠もり、自分一人で学んできたことが、権威ある学匠に認められたことで、一応の安堵を得た。それが今回の旅の成果であったといえば、そうにはちがいないが、その一方で、自分の迷いを払ってくれる具現の師に出会い得なかったことに、落胆せざるを得なかった。(町田、同書、p144)

 源空は、延暦寺境内でも僧兵が斬り合い、血を流すのを眼にしたことがあったが、都全体が戦場と化すのを見て、言葉を失った。
 ーーこれは、狂乱の世だ。地獄とは、まさに人の世のことではないか。
・・・(中略)・・・
・・貴人たちが身のほどもわきまえず、骨肉相食む戦いは、後に保元の乱と呼ばれるようになった。(町田、同書、p146)

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興福寺・西金堂の阿修羅像 ウィキペディアによると・・・ 

https://ja.wikipedia.org/wiki/興福寺の仏像

西金堂(さいこんどう)は、『興福寺流記』に引く「宝字記」によれば、天平6年(734年)、光明皇后が、その前年に没した生母橘三千代の菩提のために建立したものである[43]。

西金堂は永承元年(1046年)の大火、治承4年(1180年)の平重衡の兵火、嘉暦2年(1327年)の大火で焼け、その都度再建されたが、江戸時代の享保2年(1717年)の焼失以降は再建されなかった[44]。
「宝字記」によれば、奈良時代の西金堂には釈迦如来像、両脇侍像、梵天・帝釈天像、十大弟子像、八部神王(八部衆)像、羅睺羅像、四天王像が安置され、さらに金鼓(こんく)と波羅門像があった。釈迦如来を中心に守護神像、弟子像などを配置したこれらの諸仏は『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」(むけんこんくさんげほん)に説く釈迦浄土を表したものである[45]。「夢見金鼓懺悔品」によると、釈迦の説法を聞いた妙幢菩薩は、その夜の夢の中で、日輪のように光り輝く巨大な金鼓を見た。その光の中から無数の仏が生まれ法を説いた。一人の婆羅門が桴(ばち)をもって金鼓を叩くと、その大音声(だいおんじょう)は人々に懺悔せよと説くかのようであった、というものである。
13世紀前半頃、すなわち治承の兵火後の成立とみなされる興福寺曼荼羅図(京都国立博物館蔵)の西金堂の部分を見ると、釈迦如来像及び両脇侍像、八部衆像、十大弟子像、四天王像、金剛力士像一対、金鼓と婆羅門像、十一面観音像、羅睺羅像などが確認される。羅睺羅像は、十大弟子像の中にも同名の像があるが、それとは別の童形の坐像である[46]。
西金堂旧所在の仏像のうち、八部衆像8体と十大弟子像のうち6体は、奈良時代の像が興福寺に現存する。ただし、これらの像については、西金堂当初像ではなく、額安寺(大和郡山市)から移されたものだとする説もある。「宝字記」にある金鼓は、現在「華原磬」(かげんけい)という名称で国宝に指定されているものがこれに当たると考えられ、奈良時代または唐時代の作とされるが、後世の補修部分も多い。西金堂の鎌倉復興期の像で現存するものは、本尊釈迦如来像の頭部・両手・光背の一部のほか、金剛力士像2体、天灯鬼・龍灯鬼像、薬王・薬上菩薩像がある(薬王・薬上菩薩像は仮金堂に安置)[47]。
『類聚世要抄』所収の興福寺別当信円の日記に西金堂釈迦像を運慶作とする記載があることから、現存する木造仏頭を運慶作とする説がある。ただし、この仏頭と、運慶が同じ頃に造立した静岡・願成就院や神奈川・浄楽寺の諸仏との間には作風の違いがあることから、仏頭の作者比定については、なお慎重な意見もある[48]。

・・これに対し、興福寺の阿修羅像は少年のような風貌で、わずかに眉をひそめた静かな表情に表され、戦闘神の面影はない[60]。
・・2009年、東京国立博物館と九州国立博物館にて「興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展」と題する展覧会が開催され、両館で計165万人以上という空前の入場者数を記録した[61]。阿修羅像は、近代以降、多くの文学者や知識人によってエッセーや評論で言及され、和歌に詠まれてきた。堀辰雄は、1941年10月、当時奈良国立博物館に寄託展示されていた阿修羅像に目を留め、その表情について「何処か遥かなところを、何かをこらえているような表情で、一心になって見入っている」「なんというういういしい、しかも切ない目ざしだろう」と描写している(出典:『大和路・信濃路』)。白洲正子は随筆の中で阿修羅像の表情に言及して「紅顔の美少年が眉をひそめて、何かにあこがれる如く遠くの方をみつめている」といい、6本の腕については「その蜘蛛のように細くて長い六臂の腕も、不自然ではなく、見る人にまつわりつくように色っぽい」と評している(出典: 随筆集『両性具有の美』)。
このように、単独で言及されることの多い阿修羅像であるが、本来は興福寺西金堂に安置されていた、20数体の仏像から構成される釈迦浄土の群像の中の1体である。京都国立博物館本「興福寺曼荼羅図」を見ると、阿修羅像は西金堂本尊釈迦如来像の向かって左後方に立っていた。西金堂の諸仏は、前述のように、『金光明最勝王経』「夢見金鼓懺悔品」に基づき造像されたものである。本来戦闘神である阿修羅が憂いを帯びた静かな表情に表されているのは、「夢見金鼓懺悔品」の所説に基づき、阿修羅が懺悔し仏法に帰依した姿を表現したためであると解釈されている[62]。

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勢至丸・空腹と痛みと孤独に苦しむ地獄の餓鬼

2018年2月15日 木曜日 雪

町田宗鳳 法然の涙 講談社 2010年

これから由緒ある延暦寺で学問を修めようとする自分にはいったい何ができるのだろうか。菩提を開くといっても、世の中ではこれだけ多くの人が、凄まじくも苦しい生き方をしている。たとえ自分が菩提を得たとしても、それがどれだけ人の苦しみに役立つのだろうか。
・・・(中略)・・・
・・あちこちから人々の呻き声が聞こえてくる。
・・それは、空腹と痛みと孤独に苦しむ地獄の餓鬼の声のようにも聞こえた。(町田宗鳳、同書、p63)

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・・羅城門は不審の者が火をつけたために、今は無惨な姿となっておりまする。近来、そのあたりに盗賊が出没し、宮城に出入りする旅人を襲うこともござる。・・・(中略)・・・崩れ落ちた羅城門は、建物そのものが息づく亡霊ででもあるかのように、その一角から黒い煙を上げていた。(町田、同書、p79-80)

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