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集治監の「赤い人々」: 月形町公式ホームページより

2019年11月25日 月曜日 曇りときどき小雪


月形歴史物語 月形町公式ホームページより http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5543.htm 

・・・安村は1889(明治22)年1月から、樺戸、雨竜、上川三郡の郡長を兼務することになり、監獄の責任者に加えて地域の行政のトップともなります。この時期上川道路や網走道路のほかにも、樺戸と市来知を結ぶ樺戸道路、月形と増毛を結ぶ天塩道路などが樺戸集治監の囚徒たちの手で開かれていきました。  安村典獄の在任期(1885~1891)は、北海道開拓の最初の屋台骨となる幹線道路が急ピッチで開かれた時代であり、 その大部分を担ったのは、「赤い人」、すなわち集治監の囚徒たちでした。  1891(明治24)年に上川の永山、翌年には東旭川、93年には当麻に、それぞれ屯田兵400戸ほどの入植がありました。上川以北にようやく開拓の斧が下ろされるようになったのです。それを可能にしたのは、囚徒たちが命と引き替えるように造った上川道路でした。札幌と旭川が鉄路で結ばれたのは、1898(明治31)年のことにすぎません。札幌の月寒で編成された陸軍第7師団が旭川に進出したのも、鉄道に先がけて囚徒によって拓かれたこの道があり、旭川が道北の中心地として歩み始めていたからなのです。北見、網走地方においても、屯田兵や開拓団が入るための最初のインフラを整えたのは、同様に集治監の囚徒たちでした。  私たちはこの事実と意味を、決して忘れてはならないでしょう。過酷をきわめた労働によって今日の北海道の礎(いしずえ)を築いたのは、樺戸をはじめとした集治監の「赤い人々」だったのです。以上、月形歴史物語 月形町公式ホームページより http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5543.htm より引用終わり。

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 しかしいま月形町は、樺戸集治監を語る際に最も重要なのは、囚徒となった人々への哀悼と慰霊、そして感謝であると考えています。多くの移民たちの、そして屯田兵や企業家、官僚たちの仕事の基盤を作ったのは、実に集治監で厳しい労働に明け暮れた、名もない「罪人」たちだったのですから。  1881(明治14)年から1919(大正8)年まで。集治監が設置されていた38 年間に、1046 名もの囚人が死亡しました。月形の、そして北海道の歩みはそのことの上に成り立っていることに、現代に生きる私たちはあらためて気づく必要があります。北海道が自らの基盤に据える「開拓者精神(フロンティアスピリット)」とは、こうした史実の上でいま新たな意味を持ちえるものではないでしょうか。 「月形の歩みから、北海道に大切なことが見えてくる」-。 私たちはそんな想いをもって、これから月形町の歴史を綴りなおしてみたいと考えています。それは、過去に縛られることではなく、豊かな可能性をもったもうひとつの地域史を構想していく試みです。さらには、多様な過去を未来への豊かな基盤として耕していく、困難であるけれども希望に満ちた取り組みでもあると確信しています。 
http://www.town.tsukigata.hokkaido.jp/5527.htm より引用。

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