culture & history

中国では、人間とはつねに全体とつながった個人のことを指す

2016年2月5日 金曜日 曇り

溝口雄三 李卓吾 正道を歩む異端 中国の人と思想10 集英社 1985年

人間的本質というときの人間が、中国ではつねに全体とつながった個人のことを指す

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凡(およ)そ学を為すは、皆、自己生死の根因を窮究し、自家性命の下落(ありか)を探討せんがためなり。(同書、p205)

 自己生死とか自家性命とかは、ここでは自己における人間の社会的本質といちおうしておきます。人間の社会的本質ととくにいうのは、人間的本質というときの人間が、中国ではつねに社会からきりはなされた個人ではなく、有機的な全体のなかの個人ーーー社会的な個人であるからです。
 さて、となると、李卓吾のいう窮究とか探討というのは、つまるところ、人間はその本質において真にどのように社会とかかわるべきか、人間にとって守るべき真の社会的な道徳律とは何か、という課題の探求にほかならず、じつはそれが彼の学道や証道における「道」でもあるのです。(溝口、同書、p205-206)

はたして(陽明学の)無善無悪の流れの先に、わが李卓吾が出現し、ついに「童心説」を生むに至ったのですが、ここに至って、人間の本質そのものまでが、根源から吟味されなおすこととなったわけです。
 このあとの思想史の推移を見ると、生存欲や所有欲を人間の本質として認め、したがって道徳的善性というのは、その欲を正しく発揮し、また相互に調和させるための一種の調和能力(ヨーロッパ人のいう理性)とみなそうというのが本流となっており、それからすると、王陽明や李卓吾は、それぞれの歴史の転換点に、ただしくその役割を果たした人物と評することができます。(溝口、同書、p234-235)

陽明学についていえば、「心」なら「心」という単語の含む意味が、両国では異なっているのに、日本のほうで、かってに日本語の「心」の意味に読み取り、悪くいえば、勘違いの上に立って、日本式の陽明学をつくりだしているということ、よくいえば、日本的な主体に基づいて独自の陽明学を創造しているということです。(溝口、同書、p235)(補注:中村元 日本人の思惟方法 中村元選集決定版第3巻 春秋社 1989年 などにも両国の違いについて精しく考察されている)

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