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フスは、最高の規範は聖書であるという主張をそのまま展開させ、聖書を根拠に教皇や聖職者を批判してもよいと考えた。

2021年1月11日 月曜日 晴れ

薩摩秀登 物語チェコの歴史 森と高原と古城の国 中公新書1838 2006年

Jan Hus

フスが一貫して取り組んでいたのは、いかにすれば人々の魂は死後の救いを得られるかという純粋に宗教的な問題である。今までのように教皇に絶対的な権威を認め、教会の命令に従っていればよろしいというわけにはいかないことは、明らかになりつつある。・・ウィクリフも述べるとおり、教会とは「正しいキリスト教徒の共同体」のことを指すのであって、その中で、聖職者も、貴族も、商人も、農民も、神から与えられた役割を果たしながら、正しい社会の実現に向けて、努力しなければならない。・・要するにフスは、聖職者の指図にただ黙って従うのではなく、すべての人々が自覚をもって神の正義の実現に向けて努力せよと説いていたのである。ただし彼は教皇が教会全体の代表者であることは認めており、この点で後の宗教改革者ルターなどとは異なる。(薩摩、同書、p89-90)

カレル橋:マラー・ストラナ側の橋塔。

フスが本当にいいたかったのは、人々は皆、神の命令に従いなさいということであって、民衆を煽動して社会を転覆させようなどとは全く考えていなかったのである。(薩摩、同書、p91)

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コンスタンツ公会議でのヤン・フス

・・しかしここでも、フスには十分な発言の機会は与えられず、逆にフスの著作の中からいくつかの条項が示されて、それを撤回するかどうかの返答を迫られた。フスは、自分の主張が聖書に照らして間違っていると教えてくれるならば喜んで撤回しようと述べ、また、自分に対する訴えの中には、自分が実際には主張していないことが含まれていると抗議した。・・しかしフスがいかに自分の正しさを主張しようと、非難の大合唱の前には無力であった。七月六日、(コンスタンツ)公会議は、あくまで自説の撤回を拒否するフスを、矯正不可能な異端者と断定した。ただちにフスは聖職を剥奪されて世俗権力に委ねられ、コンスタンツ郊外に設けられた火刑台でその生涯を閉じたのであった。(薩摩、同書、p92-93)

杭にかけられて焼かれるフス;Jan Hus at the Stake

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なぜ、フスは抹殺されなければならなかったのか?

それはつきつめれば、教会の権威と役割をどう考えるかという点に行き着く。フスは、最高の規範は聖書であるという主張をそのまま展開させ、聖書を根拠に教皇や聖職者を批判してもよいと考えた。しかし公会議側は、聖書を解釈してそれを説く権利は教会にしかなく、すべての人に聖書の解釈や説教を許せば世界は混乱に陥ると考えた。この違いが結果としてはフスを異端者の側に押しやったのである。(薩摩、同書、p93-94)

ヤン・フス像

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